図書の譜(明治大学図書館紀要)1号

体験的書誌学論『校本宮沢賢治全集』と『柳田国男全集』の編集を通じて

宮沢賢治生誕100年の風景と意義

後藤

今年(1996年)は、宮沢賢治が明治29年に生まれてから「生誕百年」ということで、さまざまな催しや研究会が、岩手県の盛岡、生地である花巻を中心に行われました。それだけでなくて全国の市や町・村レベルでも催しが行われてきたわけですけれども、入沢先生は、宮沢賢治学会の初代代表理事でもあられたし、20年前に14年ご苦労されて出された『校本宮沢賢治全集』の編集もされたということで、今年はあちこちで引っ張りだこでお忙しかったと思うのですが、いかがでしたか。

入沢

いまお話にありましたように、私は全集の仕事を主にやっていて、賢治の思想とか文学の意義とかということについては、なるべく発言を慎もうと思ってきた人間ですけれども、やはり今年などになりますと、そういう人間でも多少は使い道があるとみえて、「賢治の話をせよ」ということで、あちこちへ呼ばれて行きました。

今月も、11月2日に、与野に埼玉県立の立派な劇場がありますが、そこで賢治百年の催しがありまして、3人の講師の方がお話をされ、私はコーディネーター役で、間をつないだり、締めくくりをしたりしました。また、17日にも、今度は倉敷に行きました。そこの作陽音楽大学が、毎週1人ずつ講師を呼んで公開講座をやっていまして、その1回分を受持ってくれといわれて、それで行ったんです。

後藤

それは「宮沢賢治講座」ですか。

入沢

私の回は賢治のことです。講師によって話題は毎週変わるんですが、賢治も一つあったほうがいいだろうということだったんでしょうね。それで私も行って1時間半話しました。受講者は平均年齢40幾つとかで、学生さんもいますけれども、やはり年配の方が多かったです。そんなふうにちょいちょい呼び出されます。

今年の行事で一番たいへんだったのは、8月27日が賢治の誕生日ですけれども、その日から始まった4日ほどの花巻であった国際研究大会です。これは世界中から研究者の方が集まられて、国の数にすると13カ国だったそうですが、30人ほどの人が研究発表しまして、最後は東京の有楽町のマリオンに移して、朝日ホールですか、あそこで最終的な講演会がありました。いろいろ気をつかうこともあったし、その8月20日すぎから花巻へ行って準備をし、終わった後も2、3日は後始末ということで、一番長くかかりましたね。

ただ、幸いなことに、今、僕は学会の役員ではないので、裏方でずっと通せましたから、その点はいくらか気が楽でした。

後藤

そういうさまざまな催しのなかで、いままで10年、20年、宮沢賢治の研究とか関心というのは、高まってはきたのですが、今年になって変わったジャンルというか、関心の層とかというのは何かありましたか。

入沢

今年に始まったことではなくて、もう10年ぐらい前からと言うべきかもしれませんが、今まで賢治のことについて発言なさらなかったさまざまなジャンルの方が賢治について活発に意見をお述べになるということがあって、あァこの方もこういうことで賢治を子供のときから読んでいらっしゃった方だとか、こういう読み方ができるのかとか、今迄考えてもみなかったような見方が幾つも示されて、これは良い刺激になったと思うのです。

マスコミその他の過熱気味のお祭り騒ぎで、いささかならず、辟易する面もありますけれども、これだけ賑やかなんで、じゃ、ちょっと読んでみようかということで文庫本などを買った方もありましょうしね。初めて賢治を読むという方もいらっしゃるでしょう。今言いました他ジャンルからの発言もふえる。そういう意味では、お祭り騒ぎにも、なにがしかの効用があるかもしれないと思うのです。

後藤

20年ほど前にも、柳田国男の「生誕百年」国際シンポジウムというのがあったんですが、東京で、そして大阪とか、飯田市とかでやったんですが、今迄ひそかに読まれていた方とか、違う外国の研究者たちが現れたり、そういう発見というのが、おっしゃるようにありますね。宮沢賢治の場合は、幅が広いですから。

入沢

そうなんです。いろんなジャンルの方が、「それなら俺もひとこと」ということがあるわけなんで。

後藤

一番広い層というのは、やはり童話とか詩の世界ですか。

入沢

それはやはり基本的には文学者ですからね。あの童話と詩がなかったら、ただの社会活動家としてならば、もっといろんな献身的な活動をされて成果を挙げられた方もたくさんいらっしゃるわけでしょうから。もちろん、その思想や行動は貴重ですけれども、業績ということになれば、やはり文学者としての業績が一番大きいと思います。

後藤

私も、柳田国男のささやかな研究をしながら、特に花巻とその先である遠野市は、柳田国男の出発点を示した『遠野物語』を生み出したところであり、話者である佐々木喜善と宮沢賢治との交流が晩年あったということもあって、昨年は、花巻北高等学校の生徒に、ぜひ柳田と宮沢の話をしてくれということで、体育館でお話をしてきました。

今年の8月、ちょうど花巻で「生誕百年」の最後イベントがありました。その催しの前後23日から26日まで遠野で、今年で3回目になる「遠野物語ゼミナール」というのをやっていて、メインテーマは「オシラサマ」について何人かの先生に深めてもらったんですが、基調講演で、隣で宮沢賢治をやっているのに放っておくわけにいかんというわけで、「柳田国男と宮沢賢治の共通項」について話をしました。特に遠野の地元の先生が、遠野に宮沢賢治の小学校の先生をやっていた恋人がいたという、その話を30分ぐらい披露してくれて面白かったです。

しかし、「生誕百年」ということでの一つの区切りのイベントが、今年は盛大に行われたということですが、むしろ私は、「生誕百年」よりは昭和8年に亡くなられてから63年経った今日まで、かつて宮沢賢治が無名で、わずかな読者しかいなかった時代から今日までの宮沢賢治への高まりを考えることが大切ではないかと思います。その63年の高まりを示していく一つのポイントが、やはり20年前に刊行された『校本宮沢賢治全集』であっただろうと思うのです。

『定本柳田国男集』(36巻)もその少し前に、約6万セット出たそうですね。『校本宮沢賢治全集』は、あれは高い本でしたね。14巻でしたか。

入沢

14巻15冊です。第12巻が上下二分冊でしたので。

後藤

3万セット売れたそうですね。まさに筑摩書房のドル箱だった。(笑)

入沢

一時はそうだったようですね。

「校本全集」の初発

後藤

私も一生懸命買って読みました。読んでいてびっくりしたのは、清六さんのところに生の原稿があったということもあったと思うのですが、それを丹念に掘り起こされて「校本」を作られたという、この方法論がやはり書誌学的だと思うんですね。こうしたテキストの書誌学方法の論集というのは、はしりみたいに思うのですが、どういうふうに導入されたのか、お伺いしたいと思います。

入沢

賢治について、ああいう「校本全集」みたいな資料全集を作ったほうがいい、作りたいということを考えた主なきっかけは、やはり童話のなかの『銀河鉄道の夜』という作品です。あの作品が生前には発表されなくて、死後に最初に出た文圃堂版の全集から載っていて、ずっと愛読されてきているのですけれども、よく調べてみると、文圃堂版、その次の十字屋版、その次の筑摩の31年版、42年版と4回ともテクストがかなり大幅に違うわけです。話の筋もすっきり辿れない。これはどういうことなのか。しかも、それについての説明も何もなくて、本当の『銀河鉄道の夜』を読もうとしたら、どうしたらいいんだろうという非常にもどかしい思いがあった。ひとことで言えば、それがそもそもの始まりだったかもしれません。ちゃんと原稿そのものが残っているのだから、その原稿をよく調べて、それを正しく読み分けていけば、こういうことは起こらないはずだと。あるいは、読み解きが困難な事情があるなら、その事情をちゃんと説明できる筈だと考えたわけです。

そういう思いがつのって、天沢退二郎さんと一緒に、『銀河鉄道の夜』について、まだ全く原稿を見ていない段階ですけど、それまでの全集本を突き合わせながら、こうではないか、ああではないかという憶測を語る対談をやりまして、それが1968年ぐらいだったかと思います。

それをやった後で、70年の年末ぐらいでしょうか、天沢さんが講談社文庫の賢治童話集か何かのことで花巻に行ったときに(これはまだ宮沢家と親しいわけでもなくて、僕たちもまだ草野心平さんの「紹介状」を持って訪ねただけだったんですが)、宮沢清六さんから天沢さんの泊まっている宿へ電話がかかってきて「ちょっと用事があるから来てくれ」と言われ、それで彼が行きましたら、「いま筑摩のほうで、42年版の全集をそのままそっくり他の全集と一緒にセットにして売りたいということを言ってきておるけど、自分としては、このまま出したくない。原稿をもう一ぺん検討して、きちんとした全集にして、増補すべきものは増補した形で出したい。その増補の仕事を、あなたと入沢とでやってくれないか」ということを清六さんが言われたわけです。

それで天沢さんもびっくりしまして、帰ってくるなり僕のところに「たいへん、たいへん」と駆け込んできました。2人で、どうしょうかというより、これは我々としてはたいへん嬉しいニュースなわけです。かねて原稿というものになかなか直接触れられないもどかしさを持っていたわけですから。それでいろいろ相談の結果、7人の編纂委員で新しい『宮沢賢治全集』の準備(全原稿のコピー、読み解き、細目[さいもく]の記録など)が始まったわけです。それが71年1月から始まったと思います。

後藤

先生はまだ40代ですね。

入沢

ええ、40代です。天沢さんが30代の後半で、僕が40代の前半。元気ざかりです。

「柳田全集」の方法

後藤

いま柳田国男の全集をやはり筑摩で、ここ3年ぐらい毎月編集委員会を私も含めて7人でやってます。前の『定本柳田国男集』36巻は、これは筑摩で聞いたんですが、柳田国男がまだ生きているときにスタートしたんです。最初、10巻ぐらいは出るだろうということで、10巻見繕って、それで柳田国男も目を通した。ところが、あと自転車操業でどんどん増えて、25巻、36巻まで。柳田が生きている間は、7巻しか見てないんです。あとは亡くなってからなんです。柳田国男は 130何冊かを単行本で出しているわけです。この単行本には必ず朱が入っているんです。ところが朱が入ったものを「定本」に全部は生かしてないんです。膝元にあったもの10冊ぐらいは見たそうですが、あとは生かされてない。それから、戦中に書かれた『村と学童』という疎開学童に向けて書かれた本があるんですが、それが最初『村と学童』で朝日新聞社で出されて、それが昭和20年かな。昭和24、5年に、ほかの出版社から『母の手鞠歌』というタイトルで数本のうち1本が抜けて再版序が付いて出ているわけです。またほかのところで2回やっている。合計4回改訂版が出ている。それが書名が変わったり、なかのものが1本抜けていたり、序文が付いたり、どうしてこういうふうになったのか。それを全部、元本から、つまり、最初に載った「週刊少国民」に載ったものとか、そういう書誌から見て、それから最初の単行本、改訂版と全部並べて点検しないと、これは本当の全集にならないのじゃないか。それで思えば、書誌学的にやらなければいかんという話になって、いまやっているんです。

入沢

そのことを考えだすと、非常に難しい問題がたくさんあるような気がします。

ここに持ってきましたけど、筑波大の山下浩先生が『本文の生態学』という本をお書きになっていて、この中で、漱石・鴎外・芥川を主にして、日本での全集作りとか、テクストの決め方が非常にいい加減だということを御指摘になっている本なんです。書かれていることは、いちいちもっともであり、しかし、ケース・バイ・ケースで、必ずしも一概にはいかないのじゃないかと思うところとか、いろいろ考えさせるところが多かったんで、話題になるかと思って持ってきたのですけれども、いまのお話のような著者の手入れ本というのが、また非常に問題でしてね。井伏鱒二の全集を筑摩で出し始めましたけれども、例の『山椒魚』という作品、あれはこの前、新潮社で「自選全集」を出したときには、最後の数行を作者がカットしてしまった。そういう事件がありましたね。とても印象的な結び方だったので、みんなが惜しんだわけですよね。今度の筑摩版全集では、おそらくまた復活するんじゃないかと思います。しかし、そうすると、作者の生前の意図というものを、どう考えるか、どこまで尊重するのがいいのか、という大問題が生じる。

後藤

そういうものに復活するとかいうのは、遺族の著作権とかがあるんですか。

入沢

もちろん、それについては発言権があるはずです。

後藤

権者のほうからも、そういうふうにして欲しいという希望を。

入沢

事情は知りませんけれども、編纂委員のほうでしかじかの協議の結果、著作権者の了解を得て、そういうことになった。あるいは、一定の方針を一括してお願いしているかもしれませんね。とにかく何かそういう話し合いは当然あった筈ですね。予告によりますと、作品の数も、今迄の全集よりは倍ぐらい増えるんだとか。つまり、今迄は全集に入ってなかった、作者自身が認知してなかったというんですか、そういう作品もたくさんあるようです。これは井伏さんが生きていたら陽の目を見なかったかもしれないですね。この場合も、作者の自作についての判断が、ある意味では否定されるわけで、そのへんが非常に難しい問題になりますね。

『銀河鉄道の夜』の場合でいうと、賢治は、あれを4回ぐらい書き直しているわけです。書き直して、元の形、その次の形、その次の形といって、その4段階のものが一つの原稿という形でまとまって置いてあったので、その読み解きがなかなかちゃんと出来なくて、つまり、一番最後の形のつもりで本を作ったのでしょうけれども、その前の形で賢治が削除したものが紛れ込んだり、賢治が原稿にナンバーを付けていないものですから、順序が変になったり、そういうことが沢山ありました。結局、いろいろ手を尽くして、場合によったら、こっちの紙からこっちの紙にインクの染みが写っているからどうだとかということまでやって、紙葉の順序や推敲の経過を追求していきまして、それで各段階の形が読み分けられたわけです。

賢治の場合には、作品の作り直しの過程が非常に大切なのです。というのは、あの人は独特の文学観を持っていて、自分の書くものを詩とも童話とも言いたくなくて、「心象スケッチ」だと考えているわけですね。そして、時間のなかで作品が次々と変化していくのが本当の姿であり、その時その時の真実が正しく反映されるべきだ、というような考え方をしていました。ですから、普通の作家だったら、下書きのあとで、それをさらに推敲しつつ清書し、発表して、単行本にすれば、まあ一応そこでケリがつくというふうになるのですけれども、賢治の場合は、単行本にした後にも、いっぱい手を入れてしまう。

ここにあります『春と修羅』と『注文の多い料理店』。どちらにも作者の手入れ本があるんですよね。そうしますと、本文を決める時にそういう手入れをどこまで考慮するか、考慮しないか、その問題が出てきますね。

後藤

和泉の図書館でも、この春、近代文学文庫のなかに『注文の多い料理店』を古書店で 200万しましたけれども手に入れて、愛蔵し読んでもらっています。柳田の場合もそうですが、成城大学にある柳田文庫や私達が頂いた飯田市の柳田館の叢書、それらから丹念に朱を全部拾いだして、今度の全集の中にきちっと入れようとしているのですが、宮沢賢治、柳田国男というのは、朱の校正の仕方が細かいですね。

入沢

柳田さんも若いころ詩を書かれた方で、言葉に対して非常に厳しい方だと思いますね。また、扱っているテーマにしても、非常に意味深い微妙な問題が扱われてますから、そういう意味で、一字の違いで意味が変わってしまうとか、そういうこともきっとあると思いますね。

作家によっては、そういうことはどうでもいいというような作家もいるかもしれませんけれども、賢治や柳田国男の場合は、ヴァリアント(異文)があるものは、それをかなり詳しく示さないと、全集として……。全集といってもいろいろあると思うのですけど、流布本的全集ならいいけど、研究の基礎になる全集ならば、異文はできるだけ網羅的に示さないといけないということになるわけですよね。しかし、それは本当に手間のかかることです。

賢治の場合は、原稿の上での作者自身の推敲とか、そういうものは、原稿そのものが残っていれば、その紙の上で辿れますからまだしも楽です。けれども、柳田国男の場合などのように、生前にたくさんの単行本があって、それも同じ単行本がいろんな全集に入ったり、選集に入ったりというふうなときの異同は、それを残らず洗い出すというのは、本当に大変な作業になると思うんです。

後藤

そうなんです。だから1年ぐらいで編集が終わると思ったら、なかなかそうはいかない。しかし、宮沢賢治とか、夏目漱石をはじめとして、作家の場合には生原稿が割合ありますよね。柳田の場合は少ないです。だから、文学者とはちょっと違うと思います。ただ唯一あるのは、明治43年の『遠野物語』の初校本三部作という、つまり話者である佐々木喜善に聞いた話を毛筆で書いたものと、それを原稿用紙に万年筆で推敲清書したものと、そして刊本になったものに朱を入れたものとがあります。これを初稿本三部作というのですが、例えば相馬庸郎さんとか、桑原武夫先生などがその比較を見て、柳田国男の推敲力の凄さ、ということで、柳田国男の抒情詩人、文学者の資質というのを、佐々木喜善と比べると歴然だというふうに改めて評価したのです。三島由起夫が、あれはもう文学、言葉の力で遠野を表現していると絶賛したんですね。今度それが全集のなかに入るわけです。だから、又いろいろな研究が進んでいくと思うのです。

そのほか昭和3年に出た『青年と学問』という、柳田がジュネーブから帰ってきて、民俗学の理念とか方法論を熱っぽく語った講演の原稿があります。それを5本、飯田の記念館に古本屋から当時50万だったけど、買ってあって、それをいま校訂しています。柳田には必ず「講演手控え」というのがあるんです。レジュメですね。朝日新聞のザラ紙を使った手控えがあって、それを講演したあと自分でまた原稿に書いている。それで刊本にするんですが、それを比較しているんです。その過程も今度は入れようかと。レジュメの段階と、講演をしたあとの柳田の原稿、それから刊本になったもの、これを比較することによって、やはり中身が変わってくるんですね。最初のモチーフと、テーマをもらった時のレジュメと原稿では、どうも会場に来たけども雰囲気が違うとか、今日はこういうことを言いたいとか、変わってくるんですね。

入沢

そういうこともありますよね。

後藤

私も初めての経験ですけど、初出から書誌学的にずっとやっていくということは、その作品の本来の姿、あるいは柳田国男なり宮沢賢治にしても、思想家、学者の思想の成熟というか、完成度というか、それに向けての推移というのを見ることができるという感じがしますね。

入沢

これは文学研究としても非常に意味のあることだと思うのです。ただ、それを全集なら全集としてまとめて出すときに、今おっしゃったような何段階かのものがあるときに、それを全て本文にしちゃうというわけにもいかないということがありますね。そうすると、やはり本文はある一つのものに決めて、その他のものは資料として校異の文に付けるとか、付録に付けるとか、そんなことにならざるを得ないと思うのです。

後藤

『遠野物語』も、結局、初稿本三部作の方は、付録的に資料として付ける。その代わり解題を今度の全集ではきちっとやるつもりです。

ところで、先ほどの話に戻りますが、『校本宮沢賢治全集』を、生原稿から改訂版も含めて掘り起こそうという展開になっていった、そのきっかけが弟さんである清六さんからの電話であったということでした。これは画期的なことだと思います。その場合に、天沢退二郎氏もそうですが、フランスなどの詩や文学の書誌学的な要素みたいなことを導入しようとか、そういうことがあったんでしょうか。

書誌学事始

入沢

それは私どもの専攻はどちらもフランス文学ですよね。彼は中世学者で、中世の作品ですと、原本というか、原稿は残ってなくて、写本の形で残って、それも数種類残っていて、その写本の系統ということが非常に問題になる。そういう仕事を彼はやっておりまして。もちろん、書誌学的なことに研究の中心があるわけではないのですけれども、どうしても文献批判をやらなければいけないということだったんでしょうね。

私は近代文学で、19世紀のネルヴァルという作家に興味を持っているわけですけれども、この人は、やはり同時代の作家のなかではちょっと変わっていて、宮沢賢治と似たところがあって、同じ作品に手を入れて何度も発表するということをする人なんです。そういう人の全集を作るというのは、バルザックやスタンダールなどの場合よりも難しい問題があります。実は、バルザックについても随分いろいろ面倒な問題があることがその後わかりましたけれども、今から40年ぐらい前のフランスでは、ごく一部の作家の場合を除いて、作品を原稿や刊本から問題にすることは、それほどは行われてなかった。むしろ、それは英米のほうが進んでいたと思います。

後藤

一番書誌学的な研究のスタートというのは、ヨーロッパではどこですか。

入沢

そのへんは私もよく知りませんけれども、日本の古典文学の方々などが大いに参考にされたのは、ドイツの文献考証学だったと思うのです。

後藤

先ほど『注文の多い料理店』のお話がありましたけれども、「校本」で、一番苦労されたり、あるいは書誌学的な手続きを通して宮沢賢治の詩の深層部分が見えてきたというような、何かそういうご経験というか、印象などはどうですか。

入沢

その前に、どうしても言いたいことで、『校本宮沢賢治全集』にとりかかるときの我々の願ったことというか、モットーみたいにして考えていたことが2つあります。1つは、とにかく一切隠し立てしないで全部出す。つまり、“知らしむべからず依らしむべし”というのが今迄の全集だったんですね。本文と内容解説しかなくて、原稿やヴァリアントについては殆ど何も説明がない。そうではなくて、とにかく全部知らせる。ある作品についての資料があるならば、客観的な確実な資料は全部公開するということです。それをやろうということでした。もう一つは、とにかく網羅的でなければいけない。異文に関しても、本文はもちろんですが、賢治が紙の上に、あるいは紙以外のものでも、書き残した文字は全部収録・公開しようということを考えたわけです。

極端ですけれども、例えば荷札のようなものまで、あるいは鉱石標本のラベル一枚であっても、賢治の字であれば入れる。とにかく賢治が書き残したものの一切が、書き損じを消したものまで含めて全部入っているということにしようと考えたわけです。それですから、初め筑摩が考えたセット販売のための一部改訂なんて話ではなくなってしまった。

これはとてもだめだ、何年もかけてきちんとやらなければならないということになりまして。

ただ、それまでの全集作りに比べて非常に有利だったのは、その時、その頃はもう電子複写機が使えたんですね。それまでの全集作りは、そういうものがなかったから手で書き写さなければならなかった。あるいは、旧いその前に出た全集と原稿とを引き比べながら、違っているところを訂正していくという様なやり方でやっていたわけです。どんなに気をつけていても、1人の目でやることには限界があり、必ず間違いがあるんです。どんな慎重な人でもミスは起こるわけで、それを70年から始まった原稿調査では、とにかく電子複写が利用できた。といっても、今みたいにどこのコンビニエンス・ストアにでもあるというわけではなかったけれども、筑摩書房には、たいへん調子の悪い機械でしたけど、とにかく一台あった。

宮沢家から原稿を、これぐらいの箱(30cmtex2html_wrap_inline981ぐらいの大きさを手で示す)1つ分ずつ借りてくるわけです。もちろん出し入れについても、いちいち全部枚数を点検して「借用書」を書いて、それで持ってきて。持ってくるときも、あの頃は新幹線がありませんでしたから、昼間の汽車でも6時間ぐらい。だいたい夜汽車を使いまして、寝台で寝ている時は枕元に置いて。事故が起こったら大変なことになるので、それではらはらしながら運んできて、持ってきたものをコピーするわけですよ。

今のようにカラーコピーがありませんから、全部白黒になってしまう。ところが、賢治は原稿に、赤インクや青インクや黒インクやいろいろ使っているわけです。これは全部一色になってしまいますから、それで結局、一枚一枚コピーしたものと、原稿を並べて置いて、見くらべながら、これは何色、これは何色というのを全部書き込んだんです。

後藤

写真を撮るとか、そういうことはやらなかったんですか。

入沢

枚数があまりにも多いですからね。

後藤

当時、あれだけの「校本」を筑摩でよくやってくれたと思うのですけど、今だとうるさいですよね。(笑)

入沢

そういうことで毎日のように通って、それをやっていたわけです。それで3年かけて、73年から本になって、そのあと4年ばかりかけて刊行を終わりました。

後藤

延べ10年ぐらいかかったんですか。

入沢

73年から発足して76年ぐらいには一応終わってたのじゃないかと思います。4年というと長いようですが、ヨーロッパの本の出し方などから考えますと、驚異的な速さなんです。つまり、さっき申し上げたネルヴァルの場合など、「プレイアード叢書」というガリマール書店から出している古典叢書で、これはいろんな文学研究の手本にもなる本ですけれども、それにジェラール・ド・ネルヴァルの「作品集」というのが2冊本で入っていました。しかし、その本文についてもいろいろ問題があり、批判も多くなって、その後編者を変えて三巻の「全集」に作り直されました。ところが、作り直すのに、やはり10年ぐらいかけて、ゆっくりやってますよね。いろんな全集類でも、十分に時間をかけて、例えば、1冊目が出て5、6年経って2冊目が出て、また5、6年経って3冊目が出る。それぐらいが普通なんですが、日本の出版事情ではとてもそんなことは許されないわけです。

後藤

それとは違うんですが、そういうスパンの長さ、研究の長さということでいうと、つい10年ぐらい前に終わったグリムの全33巻、あれ何10年でしょ、すごいですよね。

入沢

ヨーロッパやアメリカでは、ゆっくりと時間をかけて、きちんとしたものを作ろうとしているんですが、結局、30年経って完結したときには、また初めの方の配本分はその間に研究が進んで問題が生じてしまっているというようなこともあるわけですよね。

後藤

でも、先生、「校本」をスタートするときに、2つの願いをきちっと持ってやられたということは、良かったと思いますね。

入沢

これだけは譲るまいということで頑張って、筑摩の編集部ともかなり厳しく念入りに打合せをしました。でも、結局そうしなければ、新しく賢治全集をやる意味がないのだからということで説得して……。

後藤

「校本」が出た後の読者からの感想はどうだったんですか。

入沢

もちろん両極端あるわけです。我々は作品の最後の形だけを読みたいのだから、過程などは見せてくれるなと。うるさいだけで頁が増える、高くはなると。我々は、きちんとした良いテクストが見られればいいのだという考え方が一つあります。片方には、作品の推移をこれだけ詳しく示してくれて有り難いということがあります。ただ、とにかく消した文字まで読み解き、記録するとなると、それを活字本で表現するのに何種類もの記号を使ったりして、どうしても読みにくくなりますね。そのことが煩わしいという方も又いらっしゃる。おおむねは私たちの意図を判って下さり、賛成して下さったのですが。

いっそ、ファクシミリの全集にしたらよかったろうに、という声もありましたが、ファクシミリ版とか写真版ではどうしても表し切れないこともたくさんあるわけです。先ほど写真の話もありましたけれども、写真に撮ってしまうと、そのときの調子で色が変わってしまって、青とブルーブラックとが区別つかないとかですね。それから、賢治は、ときどき消しゴムを使って消して書き直している場合があります。そういうときに、よく原稿を見ますと、そんなに丁寧に消してないから読める。あるいは、ちょっと陽に透かして斜めにして見ると、筆圧で引っ込んだところがあったりしました。

後藤

そこまでやったんですか。

入沢

ええ。

後藤

なるほどねェ。

入沢

ところが、それを写真版やファクシミリ版にしてしまうと、それは再現されません。書いて消しゴムで消してあるというのは、どうせ活字で付記しなければいけなくなる。ですから、いずれ写真版は写真版で出るにしても、差し当たっては全てを活字化する形で、とにかく本にしておかなければ、そういうものが時間が経つにつれてだんだんと読めなくなっちゃうかもしれない。紙が傷んでしまったり、変色してしまったりで。ですから、とにかくやろうということで、できるだけのことはやったわけです。

後藤

この過程で体をこわされたりしたことはありませんでしたか。

入沢

ええ、胃潰瘍で一時入院したことがありました。

後藤

天沢さんはどうでしたか。

入沢

天沢さんは、一応元気だったと思いますけれども。

後藤

ちょっと若いしね。

入沢

でも、そのあと数年して編纂委員だった小沢俊郎さんという方は亡くなられました。刊行が終わるまでは犠牲者は出なかったというか、病人は出ましたけども。

後藤

清六さんの自宅では、何日か泊まるとかというのは……。

入沢

清六さんのところではほとんど作業しないで、原稿を東京に持ってきてやっていました。

新たなる発見

後藤

そういう中で印象として何か書誌学的に掘っていって見えてきたものというのは……。

入沢

始めには、とにかく賢治の原稿がどういうものかろくろく知らなかったわけですが、持ってきてじっくり見て行きますと、さっき申しましたように、賢治が原稿を二重三重に手直ししている、それも普通の推敲ではなくて、一ぺんきれいに清書して、その後でまた手を入れる。それをまた清書して、手を入れる、というように、層をなして推敲が重なっているということが分かったわけです。

後藤

下書稿〔1〕とか〔2〕とか、ありますね。

入沢

それを賢治は、下書稿〔1〕、下書稿〔2〕、下書稿〔3〕というふうな整理をしてなくて、同じ原稿の上で、初めから終わりまで書いていって、その次は鉛筆で手入れする、それをさらに後で全体にわたってインクで手入れをするというようなこともしているわけです。

後藤

日付がついているんですか。

入沢

童話には日付もほとんどありません。詩のほうは一応、日が書いてありますけど、それもどうも作品を完成した日ではなくて、発想したというか、取材したというか、つまり、スケッチした日付なんですね。推敲の順序は手入れの重なり具合などから判っていても、何年何月の手入れかは、全く判りません。

賢治は自作を「心象スケッチ」と呼んだし、親しかった人たちが証言しているところでも、賢治はポケットにいつも手帳を持っていて、首からシャープペンシルをぶら下げていて、思いつくとすぐ書いていた。暗いなかでも書いて、あとで自分でもよく読めないなんていうこともあったなんていう証言があります。

そこで、賢治の作品は、そういうスケッチでできているから、あれだけ臨場感があるのだというふうに、よく思われるところなんですけれども、そのことと、原稿の上で見る推敲が山のように重なっているということとは、非常に矛盾するわけですね。最初の印象に非常に忠実であろうとするならば、あんなに推敲してはいけないはずなんですが。

後藤

なるほど。(笑)

入沢

その2つのことが、いったいどう折り合っているのだろうかということが、我々の最初の疑問でした。そのうちに、例えば『春と修羅』の「序」の詩ですとか、『春と修羅』について手紙に書いていることとかを読み合わせてみると、賢治自身が作品というものについて、他の文学者とは違う考え方をしていたらしい。つまり、完成稿というものはなくて、その時その時の定稿というんですか、そういうことを考えていたようだ、というようなことが分かってきましてね。だから、そういう作品観まで表現できるような全集の作り方ということについて、ずいぶん頭を悩ましました。

おそらく、これは他の作者の場合には、そのことは心配しなくてもいいというか、多くの場合は、だんだんと作品を練り上げていって、最終的な形にもっていくということでしょうから、その点はあまり考えなくてもいいのでしょうけれども、賢治の場合は、下書稿といっても、それがそのときの作品なんですね。だから、また書き直したものは書き直したもので、その作品とつながってはいるけれど、違う時点の切り口なんですね。

後藤

そうすると、結論的にいえば、先生はどういうようにお考えかなと思うのですが。我々から見ると、柳田の場合もそうですが、完成稿が元本になる。完成稿が一番信用できるとか、思想が見えるというように思いますよね。

入沢

ところが、賢治の場合はそうではなくて、一つの作品が、ある意味で何度も完成するんです。一ぺん完成したものを、また壊して作り直して、また作り直して。だから、時間の中でハムみたいに長くのびたものを、どこで切ってもそれが賢治の同じ作品の一形態ということになるんです。

後藤

そうすると、例えば4回、下書稿から清書し、また完成稿になる。それぞれ独立した視点で捉えなければいけないんですね。発展はしているんですか。

入沢

もちろん作品の内容は変わっていきますから、思想的にも変わっていきます。『銀河鉄道の夜』でも、初期の形と後期の形では、だいぶ作者自身の姿勢も変わってきているし、そこに込められている思想も違うと思いますね。例えば、若い頃のというか『春と修羅』を出した頃の、つまり大正13年頃の賢治の考え方と、「雨ニモマケズ」を書いた昭和6年頃の賢治の考え方では、それはもう随分違うわけです。『銀河鉄道の夜』というのは、ちょうど大正13、4年頃から始まって、作り直し、作り直しされて、おそらく昭和6、7年頃までかかって、いまの形になっているわけです。その場合に、最終稿(「第4次校」)というのが完成形だとはいえなくてですね、その前の「第3次校」のほうが、途中に数枚欠落がありますけれども、そのほうが面白いという方もたくさんいると思うんです。

ただ、全集本を作るときは、それを全部同じ資格で並べるというわけにも(紙面の制約もあって)いくまいということで、一応、童話については最終形主義、詩もだいたいそうですが、最後に到達したものを「本文」に掲げて、そこまでの過程は全部「校異」という形で示すことになったわけです。

詩の場合のほうが、そういう推移が甚だしいので、詩の巻などは、ここにありますけれども(「新校本」の詩の巻を手にして)、「新校本」ですと「本文篇」と「校異篇」と分冊になっていますが、「校異篇」がこれだけになりますから、ほぼ「本文篇」と同じぐらいの厚さになっているわけです。

それから、ここにまだありませんけど、先頃第7巻(文語詩の巻)が出ました。この巻に至っては「校異」の方がはるかに厚い。童話の方でも、『銀河鉄道の夜』が入っている巻などは「校異」の方が厚いですね。(笑)

「校異」のところへ、本当は「本文」に入れなければならないであろうものを、入れてあるわけです。同じ作品のさまざまな形を全部「本文」として並べるというと、非常に煩わしくなって、かえってわかりにくいから、一つだけ選ぶということになれば、とりあえず他の作家の場合に倣って最後の形をというふうなことで、賢治の場合も非常に便宜的ですけれども、そうやっているのです。

後藤

宮沢賢治プロパーの研究をしていく場合には、それまで全部目を通さなければいかんということですが、一般の研究者でも読者でも、宮沢賢治の思想や人を知る場合というのは、やはり最終稿でいいわけですね。

入沢

一応それで見るしかないというか、話題にする時は、だいたいそれでやっておりますね。

後藤

例えば、『注文の多い料理店』とか、あるいは『銀河鉄道の夜』にしてもそうですが、10年ぐらい前に、講談社で「少年少女文学館」というシリーズがあって、『銀河鉄道の夜』を中心にしながら、中村稔先生が解説を書いていますね。私はあれが大変好きでね。中村稔は最初に出した『宮沢賢治論』でもそうだったけど、中村稔は、今迄の研究者の批評とちょっと違うでしょ。

入沢

はい、違いますね。

後藤

あのへんからずっと変わってきますよね。

入沢

戦後の新しい研究の始まりをつくった人です。我々は、そういう人たちがつくった地盤の上で、そのお陰を受けつつ仕事をしたわけです。

後藤

中村稔は、たしか「雨ニモマケズ」を、あれはやはり到達点ではあるけど詩としては堕落、であるとあの評価というのは、やはり分かれますか。

入沢

分かれると思いますね。ただし、中村さんは、あくまでも文学作品として評価した場合に、ほかの初期の『春と修羅』の本などに入っている詩に比べれば、随分ボルテージも低いし、内容的にも衰えているということだと思うのですけど、あれ自体が文学作品かどうかという問題が、常につきまとっていますね。要するに、手帳のなかに書き留められた、ひとつの祈りみたいな、心覚えの記録でして、作者自身がこれを作品として発表もしくは原稿用紙に清書したわけではありませんから、そういう意味で、ちょっと違うものだろうと、僕などは思いますよね。

それから、あれを書いた昭和6年は、東京へ出て最後の大病になって、遺書まで書いた。「昭和6年9月21日」という日に、東京のこの近くにあった駿河台の旅館の一室で、両親宛と兄弟宛に遺書を書くわけですね。そのときから間もなく、家に連れて帰られて、あるいは自分で帰ったのかな、以後は療養生活になっちゃうわけです。その年の11月3日にあれを書いているわけなので、あの内容は、もし自分が今生ではできなかったけど、今度生まれてきたら、こういうふうにしたいなというようなことではないかと……。

後藤

そうすると、「願い」「祈り」というか……。

入沢

ええ。「願い」「祈り」なんですね、あれは。

後藤

それは自分の精神とか思想の心象風景での詩や文学ではなくて。

入沢

ええ。

後藤

だから、宗教的なとかね。

入沢

同じ手帳にたくさん宗教的な事柄も書いてありましてね。それから「南無妙法蓮華経」を何度も書いたものとか、法華宗のお勤めの文句みたいのが書いてあったり、とにかくあれは、そういう意味で文学作品といえるかどうか。ただ、やはりあの中に彼の思いがこもっていることは確かだし、その思い自体はたいへん意味深いものだけれども、とにかく文学作品であるかどうかは別な問題ではないかと、僕は思っているし、ましてあれは、よく世間で受取られているようなお説教にはならないものなんです。非常に悔しい、悲しい、自分はもうこんなに病弱で、自分の余生も見えている。そういう時に書いたものなのだから、そういうふうなものとして受け取られるのならいいけれども、なんか“こういう人間であらねばならない”というふうな、賢治がお説教しているように受け取って、賢治を毛嫌いする方も、今もたくさんいらっしゃいますけれどもね。あまりあれが有名になっちゃったもので。どういう状況で書かれたかが分かってない。

二人の思想的共通性

後藤

でも、私は、この前、花巻の高等学校や遠野で2人の思想というのは、20世紀の病理の中から生み出されてきた予見的な思想で、21世紀に大きな可能性を残していった思想家である、そのなかで2つ我々に教えていったのではないか、というようなことをおしゃべりしたんです。

その1つは、柳田国男も宮沢賢治も、人間というのは<公共の福祉>に生きなければいかんのだと。個人主義とか、個人の尊厳だとか、戦後憲法でうたわれたけれども、そうではなくて、その憲法以前において、人間の不滅なものとしてあるのは、自分だけが幸福になるだけではなくて、自分のささやかな力であっても、何らかの形で社会に生かして、公共の福祉に生きるということ。それが柳田の願いでもあったし、また日本の「常民」といわれる民衆というのは、そういうように楚々として助け合いながら生きたというのがあるのだと。宮沢賢治についていえば、心象風景であったけれども、晩年の作である「雨ニモマケズ」というあの有名な詩のなかで、俺のことは放っておけという、彼の悟りみたいなもの、無念みたいなものがクロスされて、先生がさっき、「祈り」「願い」ではないかとおっしゃていた話に通じますが、私はやはり宮沢賢治の到達した<公共の福祉>に生きる思想として、あの時代における社会の無念みたいなものを嘆いていたという意味で評価をしたいんですよね。

入沢

それはそうです。賢治としても、昭和3年頃の羅須地人協会のああいうふうな活動それ自体についても、そのあと病床についてからいろいろ考えて、反省もしているわけで、結局そういったことを経た結果としての彼の思想的到達点が、例えばああした形になって出ているわけですからね。だから、これは決して無視できるものではないし、ある種の非常に高い境地だったと思います。

ただ、今おっしゃった話につないで言えば、ヨーロッパ流の近代的自我というふうなものからは、非常に早い時期から自由になっているといいましょうか、そういうことは確かにあったようです。これはもちろん法華経というか、仏教の影響もあったかもしれないし、もう一方では、彼はアインシュタインの相対性原理などもよく知っていたようですから、その影響も出ているのだと思うけど、『春と修羅』の序文の始まりが「わたくしといふ現象は」と始まるんですよね。自分というのを、存在ではなくて「現象」というふうに言うことからしても、そのことが始まっているわけで、自分が“すべてのものと一緒に明滅するひとつの現象にすぎない”というのは、なかなかその当時の詩人や作家が思いつかなかった発想だと思うのです。

後藤

もう一つ、2人の思想家に共通しているものは、この20年、国連でも、各国でも、わが国の自治体でも言っている、自然を、挑戦し破壊しながら生きたツケを、もう一回取り戻さなければいかん。いわゆる<自然と人間の共生>という問題が、スローガン化され合言葉になっていますけれども、柳田国男の視点からいうと、かつて民俗の世界というのは、自然に対しての恐怖と親しみをもっていた。その自然と人間を媒介するものが「神」であった。だから、敬虔な気持ちを自然に対して持っていた。そういう意味で、柳田は「自然」と「神」と「人間」というのは、お互いに共存して生きなければならない、生きてきたのだ。そのことを民俗の世界で吸い上げてきた。それに我々は学びながら、どう生きていくか。あまりにも科学文明優先の世界に生き、傲慢に生きてきたのではないかという反省として、柳田学というのは残されていくだろう。

いま、宮沢賢治の場合でいうと、『銀河鉄道の夜』や『注文の多い料理店』に描かれたように、また中村稔が名解説をしたように、人は動物や自然と自由に対話しながら心の交流をし、親和して生きてきたのだ、また、そうしなければいかんのだと。これもやはり<共生>という問題を予見的に提出した宮沢賢治の思想として我々受けとめたい。

というふうに2つの点で共通する思想や学問の遺産を、我々に残してくれたのではないかというふうに、私は思っているんです。

入沢

どんな作家でも、世界的な大作家といわれるほどの人になると、だいたいその境地まで到達すると思うんですよね。ドストエフスキーを読んでみましても、トルストイを読んでみても、フランスのユゴーでも、そういうところはありますよね。結局、この世界全体と自分との関係ということの本当の意味みたいなものが、あるときまるごと忽然と見て取れるんでしょうね。

後藤

そうなんでしょうね。

入沢

それから全てが始まって、その上に立ってそれぞれの独特の表現世界が展開するのだと思いますけれども。

後藤

我々も、1960年を契機にして、絶対的な貧乏から相対的な富というもの、豊かさというものを、日本国民も日本の歴史のなかで初めて所有してきた。そういうなかで少しずつ、生涯学習時代なんていわれているけれども、大学へ来る学生も多くなり、文化に対する関心とかレベルも高くなってきているわけです。そういう意味では、貧乏だから、飢えを克服するために神に祈ったりということ、それからまた神から解放されてがむしゃらに自然を破壊しながら高度成長をなし遂げてきたという、その反省のなかで、今もう一回<自然と人間の共生>問題を考えなければならないというふうになるわけですが、でも、そのときに翻って、さきほど先生もドストエフスキーなどの例をあげておっしゃいましたけど、ヘーゲルなども、やはり<自然>という問題を言っているんですよね。だけど、自然という問題は、当時の社会状況だから、受け継がれない。マルクスも、「経済学哲学草稿」のなかで<自然と人間>という問題をいっているんですね。しかし、当時はやはり社会制度、貧困、これを解決しなければならないために、自然の問題がどうしても薄れていっちゃう。

入沢

後回しになるというか、そういうことですね。

後藤

だから、やはり思想史をやっていて、日本の場合も人類史の場合もそうですが、そういう書誌学的にもう一回読み直していくという、そういう作業が必要だろうと思います。

入沢

ですから、先入見を持たないで、もう一ぺん初めから一字一字辿って読まなければいけないということだと思うのです。そういうときに、基礎になる文献が書誌学的にもきちんとしていることは絶対に必要なことなんですね。

思えば、自分でも空恐ろしいことをやっているような気がするのですが、きわめて責任が重い仕事なんですね。ただ、個人には限界がありますから、こういうことはまた20年ずつぐらいに新しい全集が作られて改善されていくのだと思います。現に、「旧校本」から「新校本」に変わるときに、随分たくさんの誤りが見つかりましたし、新しい考え方で作り直したものもありますからね。

後藤

具体的にはどういう誤りがありましたか。

入沢

おおよそは字句の小さな読み誤りですけどね。例えば、最後まで残ったのは、半濁点と濁点の読み間違いですね。御存知のように宮沢賢治の作品では、オノマトペが非常に大事ですからね。例えば、「ポカポカ」か「ボカボカ」かは、とても大事なことなんですよね。ところが、半濁点なのか、濁点なのか、それはなかなか読みにくい。原稿用紙のマス目にきれいに書いてあればいいんですけれども、ちょこちょこと行間に鉛筆で書いて、横からまた別な時の手入れがはみ出して、その上に重なっているなんていうときには、非常に見分けにくいわけです。句読点の有無についても同様です。

後藤

岩手の方言が混じっているとか。

入沢

そういうこともあるんです。ですから、方言についても知識がないと、正しいかどうかがわからない。そのために読み間違いをするということもありますね。

後藤

柳田の『遠野物語』も佐々木喜善が話したものを柳田が推敲過程で直しているんですね。いま遠野常民大学でも注釈研究をやっていて問題になったんですが、ものを運ぶもので、こちらでは「モッコ」と言いますね。あれを「アズカ」とか「カズカ」とか言ったのかな。おそらく佐々木喜善が、岩手県(遠野)で言う「モッコ」の類のことを言ったのだけれども、通じないわけです。それで柳田は「それは標準語で言うとこういうことか?」といって直したのではないかというふうにいってその注釈をめぐって大論争をこの間やりました。今度それ直しますけれども。これは絵を入れてやらないとわからないのじゃないかということになってきますね。

入沢

農村の状況がすっかり変わりましたから、昔の農村風景に係わる言葉は、民俗博物館に行かないと実物が見られないとか。(笑)

後藤

ほんとそうですね。

入沢

千把(せんば)だとか唐箕(トウミ)だとかといった道具だって、いまの若い人は知らないでしょうから。

民俗の喪失とコメント

後藤

民俗的な語彙というのは、これからは注釈をしていかないと、姿形もないわけですし。だいたい農業社会がわずか1割か2割になっているわけでしょ。農業社会だって、田植えだって全部機械であったり、耕運機もそうですからね。かつての農業の姿を伝えている民俗的なものとか文学の、たとえば、長塚節の『土』なんかもだめじゃないですか、コメント付けないと。

入沢

全集作りでも、その問題がありましてね。例えば、漱石の全集などで、たしか集英社で出された荒正人さんのなどは、かなり詳しい「注」が付いていたと思います。ところが、我々が仕事を始めたときからその意義を理解してくださって、いろいろ励ましてもくださったし、知恵も付けてくださった大岡昇平さんが、やはり『中也全集』や『富永太郎詩集』をやるときに、精力的に調べて「語注」をちゃんと付けるということをなさっているわけです。だが、我々は「校本全集」でそれはやらなかったんです。むしろ、一字一句を忠実に、とにかく賢治が書き残したものだけを忠実に生かすことに全力を尽くした。どうしても説明がないとわからないところだけ、テクストに関する注は付けるけれども、事柄注は付けないという方針を貫いたわけです。これからの全集では、この点はどうするのが良いか、場合によったら別巻のような形で「語彙解説」を付けるとかですね。

後藤

あるいは文庫本にする過程のなかで脚注・頭注をつけるとかね。

入沢

文庫なんかだとすでにある程度「語注」が付いておりますよね。

後藤

柳田の全集、来年の秋からスターして3年かかりますけれども、少し間を置いて文庫本にするときに、脚注・頭注を付けてということは考えているそうですが。

入沢

その問題がまたありましてね。校本みたいな資料全集をそのまま文庫にして、それでいいというわけにいきません。これはどうしても流布本というんですかね、なるべくたくさんの人が読む、正しく読む、そのエディションとしてのありようを考えなければいけないのですけど、それがまたなかなか難しい問題をはらんでいる。賢治の独特の言い回しが、これは間違いとして校訂すべきなのか、そうでないかというふうなこともあって。

さっきの話題の「雨ニモマケズ」のなかでも「ヒデリノトキハ」というのを、賢治自身は「ヒドリ」と書いているんですね。それが問題になって、あれを「ヒデリ」と校訂するのは間違いだということを、強くおっしゃった方があって、一時問題になりました。これはやはりいろいろな根拠から考えて「ヒデリ」の書き間違いにちがいないのですけどね。いまでも、そのときの騒ぎがあまり大きかったので、あれは「ヒドリ」であって、「ヒドリ」というのは、日傭い稼ぎの給金のことで、日傭い労働に出るときは涙を流すという意味だと、このほうが正しいのだと思っている方もかなりいらっしゃる。

後藤

それは地元ですか。

入沢

言い出したのは地元の方ですけどね。でも、賢治自身の書いたものを広く読んでみますと、ほかの詩の原稿で「旱魃」と書いてそこに「ひでり」とルビをふっている。ただ<日がよく照る>という意味ではなくて<旱魃>の意味なのです。しかも、そのルビをふるときに「ひど」と書いて、その「ど」を消して「でり」と書いている箇所もあるんです。賢治は、「ヒデリ」を「ヒドリ」と書き誤る癖がどうやらあったらしい。

後藤

方言ではなくて?

入沢

ええ、方言ではなくて。ほかのもう一つは、『グスコーブドリの伝記』という童話が「児童文学」に生前に載りますけども、その中をずっと見ていますと、やはり「ひでり」とあるべきところが「ひどり」となっている箇所があるんです。これは単なる誤植ではなくて、おそらく原稿に「ひどり」と書いてあったのがそのまま活字になったのじゃないか。賢治は、そのときは気がつかないで、そのままスッと「ひどり」と書いてしまったのじゃないか。少なくとも賢治の作品のなかでは、「ヒデリ」という言葉は、農家にとっては困った事態、恨めしい事態としてしか扱われていないのですけれども、「ヒドリ」説をとる方々は、日照りというのは農家にとってはいやなことではなくて、“日照りに飢渇(けがち)なし" 日照りの年には凶作はないということを昔から言うくらいだから、これは決して「ヒデリ」ではなくて、「ヒドリ」なのだとおっしゃるわけです。ところが賢治は、少なくともいろんな作品のなかで「ヒデリ」というのは<旱魃>の意味で、つまり、雨がなくて困ることで、水争いもそれで起こるわけですが、そういうふうな言葉として、農家の三大災厄の一つ。つまり、冷夏と、雨が降らないことと、もう一つはお金がなくて肥料が買えない。それを挙げているいるわけです。そういう賢治ですから、そこはやはりどうしたって「ヒデリ」でなければいけない。賢治だって、ときには書き間違いはするわけで、それもけっこう沢山の書き間違いをしています。

ただ、そういうふうに明らかに書き間違いとわかるのはいいのですが、どうもこれは賢治自身の言葉癖ではないかというふうなのも、いろいろあります。例えば、煙管を「くわいて」と書くんです。同じ作品のなかで「くわいて」と「くわえて」があります。数えてみると、どちらかといえば「くわいて」のほうが多いぐらいです。そういうのは、やはり岩手では「イ」と「エ」が混同するあれだと思うんですけどね。そういうところを、もちろん流布本では「くわえて」に直して統一するにしても、校本では残したいなということもあって、今度はそのままに残しているわけです。明らかに意味が取り違えられない限りは、かなり誤りくさくても、賢治が書いたものをそのまま残したいという形でやっているわけです。

後藤

やはり土地の息遣いというのは、生きた感情がありますからね。

入沢

明らかに方言を使っているところは、これはそのままにするより仕方がないのですけどね。

それからルビなどでも、普通はルビは、例えば本文が8ポなら、横に4ポぐらいの小さい仮名を付けますよね。ところが、賢治は、原稿で見ますと、そのルビのなかにも文字の大小があって、特に方言のところなどは、例えば、兄さんのことを「兄な」というのですが、「兄」という漢字に「あぃ」とルビがふってあって、「い」が小さいんですよね。そういうのは「新校本」では小さくしたんですよ、ルビのそこを。(笑)これは「aina」と読むのではなくて「ana」と読ませたい。つまり、「ア」と「エ」の中間母音というんですかね「a」という音にしたいと、賢治は考えていたんですね。そういうルビの付け方をどこまで、流布本でまでやれますかどうか。

いまの「くわいて」と「くわえて」は、校本だから混在のままで出来ますけど、文庫にするときは、やはり統一した方が良いのではないかと思うわけですけどね。

ただ、今年になって角川文庫が、賢治童話を全面的に収録替えしたんです。そのときに、出たばかりの「新校本」の本文を底本に使ったんですね。それは少し困ったことだと思うんです。なぜかというと、「新校本」では、いま言ったように、賢治が間違いスレスレで使っているようなものをそのまま生かしているわけなんですよね。文庫本というのは非常に多くの人が読む。特に若い学生たちが読むものでしょ。そういうところで、そこまでやるのはおかしいので、文庫本をやるときには、文庫本の編集に当たる人が十分な見識と責任をもって校訂してほしいわけです。それをしないで、仮名づかいだけ新仮名にして本文を作った。ある意味では、賢治の原稿に一番忠実な文庫本ができちゃったわけですけどね。

後藤

先を越されちゃいましたね。(笑)

入沢

しかし、それはどうなんだろうということですね。そういうのが、果たして良い本文だろうかということです。このへんが、いわゆる文献批評的な意味で問題になるところだと思うのです。おそらく僕は、少なくとも流布本の本文としては、良い本文ではないのじゃないかと思うのです。やはり正すべきものは正して、正しく、混乱なく、読みやすくするということは、すべきだと思います。

まだ日本の近代文学関係では、そういう基礎の資料本作り、さらにその流布本作りについての考え方が、実に安易であいまいなレベルで揺れ動いているような気がします。

後藤

「校本」では、私も正確に覚えてないのですが、旧漢字でやってました?

入沢

いえ、漢字は新漢字のあるものは新漢字です。賢治自身も略字の俗字を多用していますし、それを旧漢字で統一することにも疑問がありました。

後藤

柳田の「定本」は旧漢字だったんです。今度は、やはり電算写植でしょ。活字本でやると高いらしいですね。

入沢

とりわけ今度の「新校本」になりますと、これは電算写植になりましたから、いよいよ活字の美しさは無くなってきました。

完全全集の意義

後藤

それにしても、私たちも柳田の今度の全集は完全全集ということで進めていますが、おそらく最後の全集になるだろうと。また、30年、50年後に、もちろん作り直すことがあるだろうけども、柳田家に著作権があるうちでの最後の全集になるということで、時系列できちっと押さえて、初出から、さらに柳田の朱入れを入れて完成稿をと思っています。

入沢

じゃ、完全に編年的に並べて。

後藤

ええ。で、まず単行本を全部時系列で巻に入れていって、ほぼ20巻で巻立てしたんです。21巻からは、雑誌や新聞、特に朝日新聞の論説を書いてますけど、ああいうのは全部雑編として「論文編」にして、それを10巻にまとめて、あと「日記」とか「年譜」「索引」という形で分けたんです。前のときには、例えば第16巻「農政関係」が2、3本入ると、そこに農政関係の雑編を入れたわけですね。そういうことはやめようと。時系列で並べておいて、読者に柳田の使い方を選定してもらおうと。材料提供をきちっとやろう、解題だけはきちっとやりましょう、ということで方針を立ててやってきたんです。

入沢

まず基礎になる資料用全集としては、そうなさったほうがいいですよね。あと流布本用の10巻全集とか、そういうときには、もちろんジャンル別もいいでしょうし、いろいろ考え方はできると思いますけれども、基礎になるものは、そういうふうにしておいたほうが、何かと便利ですよね。

後藤

もう一つの方針は、柳田国男の中心学問は確かに「民俗学」であるけれども、今度は民俗学者やそれを研究する人に提供する全集ではない。そういうように限定しない。むしろ「日本学」として、教育や、農政や、自治体や、高齢者福祉の問題や、婦人問題とか含めて、さまざまなジャンルに向けて、この全集を出していく。それを、皆さんが選択して読んでほしい、というふうな形を考えています。客観的に材料を出していく書誌だけはきちっとやってということでやっています。天沢先生や入沢先生がご苦労された「校本」というのは、我々が今やっているものよりは、もっとたいへんだったわけで、おそらく「新校本」もそうですが、20年前にやられた『校本宮沢賢治全集』というのは、私は不滅に残っていくだろうというように思っています。

入沢

やり方としては、新しかったと思いますね。

後藤

これ以上新しい資料が出ないとかね。

入沢

ただ、やはり今度の「新校本」になりまして、それがずいぶん改善されたと思いますけれども、しかし、それは改訂であって、新しい考え方が始まったのは、やはり「校本全集」でしょうね。

今考えれば、又いろいろ欲が出てきて、あの時こうすればよかったとか、いろいろありますけどね。

後藤

柳田の全集もそうですが、いわゆるCD-ROMをサービスで入れようかとか、そういう問題も出てきているんですね。電子本化という問題が一つあるけれども、それは果してサービスとしてやって、売れるか売れないかという問題も一つあるそうですけどね。そういうことも、次の問題のなかには出てくるでしょうね。

入沢

そうですね。電算写植ですることの利点は、それを使ってそのままそこから索引を作ったりすることがやり易い点とか、いろいろあるだろうと思います。それから、これから改訂版を作っていく時も、非常に改訂がしやすいとか、電算化には、もちろんそれなりの意味はあるんですが、なかなか我々は紙にきれいな活字で並んでいるものに未練があるものですからね。(笑)

後藤

それはそうですよね。

入沢

電子本と活字本というのは、新しいジャンルが出てきて、2本建てになってくると思うのですが、基本はやはり活字で書かれた書物であることには変わらないんで、映像や画像の文化というのは出てきますけれども、文字を読んで、行間の意味もを追いながら考えていくというのは、学問や思想の基なんで、そういう意味では、やはり書誌学的にしっかりした全集なりテクスト作りというのが一番大事だと。そういう考え方を、我々が研究する場合でも、持ちながら、学問をもう一回見つめ直していくというのかな、そういう時代になっているという感じがしますね。

一般には、書誌学とか文献批判なんていうことを意識しないで、本屋で本を買ってきて読めばいいわけですが、ただし、宮沢賢治の場合、例えば『銀河鉄道の夜』ですと、いま文庫本を買ってきて読んでも、岩波文庫と角川文庫では本文が違うわけです。岩波文庫だけは旧い間違ったテクストをまだ使っています。詩の本文については、文庫によってもっと多くの異同があると思いますしね。そういう点で、賢治は割合そういうことを読者に意識させる作家かもしれません。だから、本を作る者の方が、かなり責任を感じて気をつけて、この出版にとってはこういうテクストが一番いいのだということを、本当によく考えてやらないといけないのですが、そのへんがまだまだルーズであるような気がするのです。

いま一冊で賢治の全作品が読めるというふれこみで『ザ・賢治』なんていう大判の本が出てますけど、あれなどは、昔出た本を写真製版して組み合わせていて、例えば、『銀河鉄道の夜』でいえば、一番旧い昭和10年の文圃堂版に載った『銀河鉄道の夜』がそのまま入っているわけです。これは誤りを数えれば数百カ所あるし、エピソードの順序も大きく違っている。そういうのもちゃんと麗々しく商品として出ているわけですから。

後藤

困りますね。

入沢

家庭の電気器具とかそういうものでしたら、欠陥商品としてすぐ問題になるのでしょうけれど、本の世界では、そういう間違ったものも平気でまかり通っているということは、まだ作品の本文ということについての意識が大幅に立ち遅れているということなんじゃないかと思うのです。

今後の課題

後藤

最後に、先生どうですか。宮沢賢治のこれからの書誌学を生かした展開みたいなものを何か。

入沢

テクストについての研究は、今やっていることをさらに丁寧にやり直し新発見される資料を補いながら全集を作り直していけばいいと思いますから、基礎はできたと思うのですけど、やはり賢治の生涯とか、思想とかについては、まだまだ謎が山ほど残っているわけです。早い話が、賢治の誕生日は、8月27日になってますが、戸籍謄本では8月1日ですから。そういうことだって、さらに検討をしていけば、あるいは27日ではなくて、28日だったとか、そういうことがでてくるかもしれないし、その他いろんなことで、いまの賢治の伝記研究はかなり細かくなされてますけれども、大部分は伝聞によってそういうことが決まっていく。あるいは、作品の日付から、実体験を推定して書くとか、そういうふうなことが積み重なってますので、もういっぺん客観的な立場からやり直しする必要があるのではないかと思われます。

それから、我々がいま直面している幾つかの新しい問題との関係で、賢治を見直してみれば、今から70年ぐらい昔に、既にこういうところまで考えてあったんだということを、発見して驚くことも幾つも出てくるでしょうね。

宇宙飛行士の毛利さんという方が、宇宙から帰ってこられて、お里帰りしていろいろ講演をして回られたのですけど、あの方は賢治が好きなようなんですね。スペースシャトルの中に持っていくノートにも賢治の作品を書いていって、宇宙からそれを読もうかとも思ったと。また、賢治の短歌にも不思議なのがありましてね。若い頃、中学生の頃の短歌だと思うのですけど、いかにも宇宙から地球を眺めているような、そういう短歌を書いたりしているんですよね。確かこういうのだったと思います。

そらに居て
みどりのほのほかなしむと
地球のひとのしるやしらずや
清六さんが、毛利さんが宮沢家を訪ねられた時に、これを色紙に書いて 上げられたそうですけどね。

賢治というのは不思議な人で、時代をはるかに先取りしているところがあります。

後藤

そういう意味では、21世紀にさらに読まれていくテキストであるということですね。

入沢

意味をいろいろ発見することは必要ですけど、やはり、まず何よりもテクストを正しく読む、読み抜くというところから、もういっぺんやり直すべきだろうということです。

後藤

どうもありがとうございました。

1996年11月22日 於・図書館長室

<付記>文中の人名については、原則として新字体で統一しました。(編集部)

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