図書の譜(明治大学図書館紀要)1号

明大校歌歌詞の成立−西條八十の自筆原稿を追って−

はじめに

作詞者児玉花外、作曲者山田耕筰の名と共に、あまねく世に知られた我が明大校歌は、その文学性において、また音楽性において、数ある大学校歌の中でも白眉と賞されている。作曲家の團伊玖磨は、専門家の立場から次のように評している。

その旋律は、通常の校歌の常識を越えて音域が広く、又複雑で、独特な美しさを 持っている。後半の”明治 その名ぞわれらが誇り”の前と後に、多分作曲者が付け加えたと思われる二度の”おう”が旋律を力強くするのに大いに役立っていて、この部分が印象的である。作曲者の力量であろう。・・・(中略)・・・[特に優れているのは、早稲田と法政大学の校歌とも共通して:筆者注] 音階が自由な七音階で、日本の歌の殆どが偏執する五音階をはねのけている点である。つまりべたべたした通俗性に媚びずに、どれも颯爽と、眉を上げる青年の意気を歌い上げている点で、その点が良い。(「校歌(1)」)[1.18]

かくも優れた校歌を持ったことに、私たちは改めて感謝と矜持の念を心に刻みたいものである。

さて、耕筰の自筆譜は古くから大学に伝存し、現在は図書館貴重書庫の筐底深く秘されているが、花外の原稿は関東大震災で灰燼に帰したものか、あるいは耕筰宅その他に留め置かれたものなのか、杳としてその行方が知れなかった。しかるに昨年5月、花外の自筆歌稿が古書店で売りに出されたとの思いがけぬ知らせが舞い込んできた。

以下に、それからおよそ半年間に亘る自筆歌稿探索の顛末を記し、大方の批評と教示を仰ぎたいと考える。

文献並びに関係機関への調査は橋本千良(図書館庶務課長)と飯澤で行い、本文は飯澤の責任においてまとめたものである。なお、引用文等における旧漢字は概ね当用漢字に改めてある。また、文中の[]内の数字は、文末に付した「明治大学校歌関係文献目録」への参照を示すものである。

原稿の出現

ことの発端は学長宛に届いた一通の投書に始まる。そこには一校友からとして、「神田のY書店の古書目録に児玉花外の校歌の自筆原稿が出ているが、大学で購入したらどうか」と云った趣が認められていた。学長からの指示で室員がY書店に照会したところ、「明大図書館にも目録を送ったが、注文がないので数日前に他に販売してしまった」との答えが返ってきたという。

確かに図書館には、平成8年5月発行の『Y書店 美術目録 近代名家自筆物特集』が届いており、「明治大学校歌 児玉花外自筆歌稿 一帙 ××万円」が、1葉の写真と共に登載されていた。図書館には、全国の古書店から日々沢山の古書目録が届く。選書担当者はそれらに丹念に目を通して、明大関係の資料の発掘や、蔵書の欠落部分の補充にも努めている。目録はその後、選書室に書店別にファイルして一定期間保存し、業務用としてばかりでなく、選書室利用の教員にも供されている。いささか弁解がましくなるが、そのような態勢にありながら見過ごしてしまったのは、目録が「自筆物特集」となっていたためで、通常この種の資料は図書館として購入することがなかったからである。

学長室からの知らせを受けて、即刻、橋本課長がY書店に足を運んだ。すでに商談が成立してしまっていることであり、無理な話ではあったが、本学では創立100周年以後、大学史の掘りおこしと検証資料の収集を大学を挙げておこなっていること、また、校歌は歌詞と曲が揃ってはじめて完成するものであり、図書館に所蔵する耕作の自筆譜と一対のものとさせたいことを訴えた。その結果、書店側も本学の意向を諒とせられ、先方への連絡を約束してくれた。程なくY書店から、買い主は東北地方のS市であり、先方では買い主名を明かすことと、原稿を見せることは構わないと云ってくれているとの知らせがあった。

そこから、S市担当部局との折衝が始まった。S市では文学館の設立準備が進んでいて、郷土ゆかりの作家たちの著書や原稿類の収集を行っているとのことであった。

花外は京都に生まれ(父祖の里は山口県)、同志社予備校に進んで新島襄の影響を強く受けたが、新島が亡くなると、新島が校長を兼務していたS市のミッション・スクールに転じ、十代後半の2年間をここで送っている。花外の自筆原稿が古書市場に出回ることは少なく、そのためにこの原稿がS市文学館にとっても中心となる逸品であることは、頷けるところであった。

数度にわたる電話でのやり取りの後、学長の熱意も受けて、6月17日に後藤図書館長にS市を表敬訪問してもらうことにした。D係長と担当のMさんに丁重に迎えられ、挨拶もそこそこに原稿を見せて頂いた。

原稿は古書店が誂えたと思われる帙に収められ、武田孟元総長が、昭和54年に「毎日新聞」に語った「「白雲なびく」誕生の秘話」[1.20]のコピーが添えられていた。用紙は松屋製の20字10行B5判で、黄ばんで幾分か劣化しかけ、僅かながら欠損箇所もあった。3枚の原稿の右肩を三角に折ってホッチキスで綴じ、その下に以前に留められていたと思われるクリップの錆跡がくっきりと残っている。

本文はペン書きで、ところどころに鉛筆による推敲と思われる跡がある。1枚目の欄外に鉛筆で「明治大学 児玉□□」と記されている。これは元所有者のメモ書きと推測されるが、「児玉」の下部は用紙が欠損していて読みとれない。

歌詞の内容は、漢字の使い方や、2番と3番の最後フレ−ズに若干の異同があるものの、現在歌われているものに極めて近い。ただ、本文に題名も作詞者の署名も記されていないことが気になる点であった。

後藤館長から、学校にとって校歌がどんなに大切な意味をもつものであるか、そして本学がこの原稿の入手を如何に熱望しているかを縷々説明し、そのことはよく理解していただけたと思う。しかし、文学館設立が県の助成を受けたプロジェクトで進められ、資料購入も綿密な計画のもとで行われている経緯を聞くにつけ、事の困難さを感ぜずにはいられなかった。

それでも、S市からは、本学が原稿を複製することへの便宜提供の意向が示され、当方からも、持参した図書館所蔵の近代文学関係図書リストを示して文学館展示への協力を申し出るなど、今後の交流を約し、最後に原稿の写真撮影をさせて頂いて、そぼ降る雨の中、S市を後にした。

少なくともその時点での譲渡は絶望的との感触を強くして帰校したのであるが、それから数日後の早朝、思いがけない朗報がもたらされた。D係長からの電話で、「資料の性格や要望を検討した結果、原稿を貴校に譲渡することにした。ついては、市として一度購入決定したものを、明治大学からの特段の願いを受けて譲るものであるから、しかるべく文書で申請してほしい」との、全く予期せぬ決定が知らされたのである。S市では資料選定の議は経たが、幸いなことに支払い処理が終わっていなかった。そこで、見計らいの結果、購入を見合わせることとしてY書店に返品するとの、破格の措置をとってくれたものである。直ちに館長から電話で謝意を伝えた。

こうして、校歌原稿はめでたく明治大学図書館の所蔵に帰するところとなった。

校歌の成立史

ところで、本学の校歌はどのような過程を経て制定されたのだろうか。原稿が届くまでの間に確認すべく、本学の正史である『明治大学百年史 第3巻・通史編1』[1.24](以下『百年史』)に当たった。そこには次のような経過が紹介されている。

「白雲なびく」の校歌が制定されたのは大正9年で、明大にはそれまで校歌がなかった。当時花形スポーツであった端艇レースの応援を盛り上げるため、同年春の予科大会で「校歌制定」の決議がされ、学生であった武田孟、牛尾哲造ら3名が大学の認可を得て奔走した。作詞は笹川臨風教授の紹介で熱血詩人として活躍していた児玉花外に依頼し、作曲は牛尾の発案でアメリカから帰ったばかりの気鋭の作曲家山田耕筰に頼んだ。耕筰は花外の歌詞が曲に乗り難いとして、花外の了解を得て西条八十に加筆の手を煩わせた。しかし、それでもなお耕筰は満足がいかず、「更に耕筰の創意を織り交ぜ」、ようやく定稿が得られて秋のレースに間に合わせることができた。歌詞は11月15日の付けの「明大学報」[1.3]で公示された。その内容は次のようなものであった。

明治大学学報の歌詞
白雲なびく駿河台 眉秀でたる若人が
  撞くや時代の時の鐘 文化の潮みちびきて
  遂げし維新の栄になふ 明治其名ぞ我等が母校
  明治其名ぞ我等が母校 明治、その名ぞ、われらが誇り。

権利自由の揺籃の 歴史は古く今もなほ
  強き光に輝けり 独立自治の旗翳し
  高き理想の道を行く われら健児の意気をば知るや
  われら健児の意気をば知るや明治、その名ぞ、われらが誇り。

霊峰不二を仰ぎつつ 刻苦研鑽他念なき
  われらに燃ゆる希望あり いでや東亜の一角に
  正義の鐘を打ちて鳴らさむ 明治、その名ぞ、われらが誇り。

ところが、実際に「明大学報」に当たって見ると、制定について何のコメントもなく、ただ歌詞と数字譜のみが 囲み記事で掲載されているに過ぎないことが分かった。この素気なさは、学生の策動を追認せざるを得なかった大学側の対応の表れとも受け取れるが、開校以来の記念すべき校歌制定の公示というには、いささか奇異な感じを受ける。しかも、1番の「暁の鐘」を「時の鐘」と誤植(数字譜では「あけのかね」と表示)、3番では「時代の夢を破るべく 正義の鐘をうち鳴らさむ」とあったであろう 1行を脱落()させるなど、お粗末としか云いようがない。

以上のようにして成立した校歌は、成立過程ばかりでなく、その後も様々なエピソードや運命的な出来事によって彩られていく。それらを明らかにするのが本稿の目的ではないので詳述は避けるが、『百年史』で触れていない次の二点のみを紹介しておきたい。第一は、花外の歌詞にある「文明の潮」の「潮」は、花外に劣らぬ熱血青年「牛尾」の意気に感じた花外の情意を表わしたものであり、牛尾こそが、校歌制定の最大の功労者であったことである。第二は、春日井薫元総長の役割である。春日井は当時最高学年にいて、武田と牛尾から校歌作成謝礼の相談を持ち込まれ、木下学長に談判し、「明治大学の学生が明大の校歌と言って依頼し、一流の大家が三人もで作詞作曲が出来てしまって居るのです・・・。この儘捨ておくとこの関係学生だけで無く、結局は明大の名誉にかかわりませんか」と訴えた。木下学長に「つまらない話なぞ持ってこないで勉強しなさい」と叱られながらも450円を獲得する。このエピソ−ドは後年、『木下友三郎先生追悼録』[1.14]に記されたものであるが、春日井はこの回想の中で、花外と耕筰の名を挙げながら、3人目の人物については何故か触れていない。

次に繙いた『百年史第1巻・資料編1』[1.23]には、花外の原稿(以下「A」)をはじめ、耕筰加筆の草案(同「B」)、耕筰自筆譜の歌詞(同「C」)、「明大学報」に公示された歌詞(同「D」)等の、歌詞成立までの過程を示す諸資料が収録されていた。

そこに花外の原稿を見た瞬間、思わず背筋を冷たいのもが流れた。花外の歌詞は現在歌われているものとは、全く似て非なるものであったからである。

ちなみに、Aと今回の原稿(以下「X」)を比較すると次のとおりである。

花外の原稿

健児の風に打なびけ 実力養成の旗
  じるし 校の桜と散り行く学徒
  明治 明治! 学の誇は我等が明治!

権利自由の揺籃は 茲にはじまり
  今も尚 強き力に動かす社会
  明治 明治! 学の誇は我等が明治!

白雲湧ける駿河台 立ちて時代の暁
  の鐘 正義平和を撞き出す世界
  明治 明治! 学の誇は我等が明治!

青春神田の真中に 中原の鹿夢なら
  ず はぐくむ文化の雛をも見よや
  明治 明治! 学の誇は我等が明治!

文明の潮開拓の 明治維新の栄担ふ
  更に未来の国歌の事業
  明治 明治!学の誇は我等が明治!

赤壁の名か 若き血か 流るゝ雄弁
  勝鬨の お茶の水に新月高し
  明治 明治!学の誇は我等が明治!
今回の原稿

白雲なびく駿河台、眉秀でたる若人が、
  撞くや時代の暁の鐘。
  文化の潮みちびきて、遂げし維新の栄になふ、
  「明治」その名ぞわれらが母校。
   明治 明治
   「明治」その名ぞわれらが母校。

権利自由の揺籃の、歴史はふるく今もなほ
  強き光にかがやけり。
  独立自治の旗かざし、高き理想のみちを行く
  我等健児の意気をば知るや。
   明治 明治
   「明治」その名ぞわれらが心。

霊峰不二を仰ぎつゝ、刻苦研鑽他念無き
  われらに燃ゆる希望あり。
  いでや東亜の一角に、時代の夢を破るべく
  正義の鐘をうち鳴らさむ。
  (又は「おもき使命の鐘を鳴らさむ。)
   明治 明治
   「明治」その名ぞわれらが希望。

『百年史 第1巻』ではAの出典を、歴史編纂事務室に残された『諸団体沿革記録』[1.9]に求めているが、そこには4番までしか記録されていない。しかし、牛尾が昭和6年に発表した「校歌の生まれるまで」(以下「牛尾回想記」)[1.7]には6番まで記されている。本稿では「牛尾回想記」から採録した。

並べてみると一目瞭然である。Xが現在歌われている歌詞に極めて近いのに対して、花外の歌詞は、「健児」、「権利自由の揺籃」、「時代の暁の鐘」、「維新の栄担う」など、いわばキーワードを残すだけで、大幅に改作されていることが分かる。

しかも『百年史 第3巻』には、花外宅に原稿を受け取りに出向いた折りに、花外は机の引き出しから「二枚」の紙を取り出したことが記されている。このことの出典は明らかにされていないが、戦後に武田が校歌の成立過程を詳細に記述した、「校歌「白雲なびく」物語」(以下「武田回想記」)[1.16]に拠るものと思われる。

今回の原稿は前述のとおり「三枚」であり、歌詞内容も一致しない。このことから、この原稿を花外の自筆とすることは極めて疑わしいと云わざるを得なくなった。では、どの段階の、誰の手になるものなのか。Y書店の目録には、原稿1枚目の写真が掲載されていたのだから、当初から目録の表示を鵜呑みにせず、諸資料と照合し、精査していれば、その後の展開は違っていたはずである。それを怠った不明を恥じなければならない。

そこで改めて、歌詞の完成までの変遷を検証するとともに、もう一方で筆跡からの調査を進めることにした。

耕筰加筆の検証

Xが現行の歌詞に近いということからすると、最後に加筆したといわれる耕筰の自筆原稿であることが考えられる。

耕筰加筆の草稿

白雲湧ける駿河台 鳴るよ時代の暁の
  鐘 正義平和を撞き出す。
  文明の潮開拓の
  維新維業の栄担ふ
  明治その名ぞ 我等の心
   MEIJI MEIJI
   明治 明治 明治
  明治その名ぞ 我等の誇り

権利自由の揺籃は 茲に始まり今もな
  ほ 強き力に生き○○○
  若き東亜の一角に
  先達の意気高らかに
  文化の使命叫ぶかな
   MEIJI MEIJI
   明治 明治 明治
  明治その名ぞ 我等の誇り
耕筰自筆譜の歌詞

白雲なびく駿河台 眉秀でたる若人が、
  撞くや時代の暁の鐘。
  文化の潮みちびきて、遂げし維新の栄になふ、
  「明治」その名ぞ われらが母校。
  いえい いえい 明治フレー。いえい いえい 明治フレ−
  MEIJI フレー HIP HIP フレー
  HIP HIP フレー
  「明治」「明治」「明治」フレー フレー フレー フレ−
  「明治」その名ぞ われらの誇り。

権利自由の揺籃の 歴史はふるく今もなほ
  強き光にかがやけり。
  独立自治の旗かざし、高き理想のみちを行く
  我等健児の意気をば知るや。
霊峰不二を仰ぎつゝ 刻苦研鑽他念無く
  われらに燃ゆる希望あり。
  いでや東亜の一角に 時代の夢を破るべく
  正義の鐘をうちて鳴らさむ。

耕筰は、昭和33年度版の明治大学応援団機関誌「紫紺」に発表した「白雲なびく駿河台ー校歌物語」(以下「耕筰回想記」)[1.13]で、「牛尾君の意気に共鳴してしまい、約二十日間位は歌詞を纏める事に没頭し、”これならば”という詞にまで仕上げた」上で、その道の大家の叱正を仰ぐべく、畏友の三木露風の援助を得、「かくして生まれたのが、あの「白雲なびく・・・」である」と、あたかも耕筰自身の加筆によって完成させたように書いている。

「牛尾回想記」もまた、「山田先生は山田先生で大いに筆者の熱心を買って下すって、自らいろいろと想を練って頂いた」とし、Bを紹介している。二人の文章から、八十への依頼とは別途に、あるいは同時進行的に耕筰自身も加筆したことが窺える。だが、BとXは、明らかに歌詞が一致しない。

他方Cは、「いえい」以下のリフレーン部分を除けば、本文はXとも現在の歌詞とも極めて類似している。このリフレーンは、牛尾によれば、応援歌用として付した耕筰の「オリジナリティーによるもの」であるが、「六ケ敷いと云う事によって、何時か歌はれなくたって了った」もので、「山田耕筰氏の創意を織り交ぜ錦上更に華を添えて作りあげられた」とは、このことを指すのではないかと推測される。

では、Xは耕筰の自筆か、ということになるのだが、それは「否」といわざるを得ない。なぜなら、後述するように、耕筰の自筆楽譜に記された筆跡とXのそれとは、全く符合しないからである。

耕筰は露風に相談して手を入れたと記している。八十と耕筰は共に露風を中心とする詩と音楽を愛する象徴派の詩誌「未来」の同人で、三人は古くから深い交流があった。耕筰は八十も同様であるが、特に露風の詩には多くの曲をつけている。その関係からの助言を求めたことは、想像に難くないが、『三木露風全集全3巻』(同刊行会,昭和47-49)や、阿部宙之介『三木露風研究』、『同続』(木犀書房,昭和39-44)などの資料を見る限りでは、耕作から相談を受けた事実を確認することはできない。露風は大正九年に函館のトラピスト修道院に講師として赴任したが、九月に父親が死亡したため、一時帰京している。この機会に相談を持ちかけたものだろうか。

「耕筰回想記」は、武田や牛尾が再三記しているところの、耕筰が八十の名を挙げて加筆を依頼させたことに全く触れていない点や、校歌作曲から40年の歳月を隔てて書かれたものであるためか、依頼を受けた時期について記憶違いがあるなど、資料的にはいささか信憑性に欠けるところがあることも付言しておきたい。なお、耕筰には『若き日の狂詩曲』(講談社、昭和26年)他の自叙伝や、淵真吉著『楽聖山田耕筰を囲む人びと』(赤とんぼの会,平成8年)等の伝記書が多数あるが、明大校歌に言及したものは、前述の回想記の他には、17回忌に記念出版された『この道』[1.22]に付された解説以外に見ることができない。耕筰は生涯に400近い校歌・社歌を作曲している。その嚆矢は明治43年の「岩手県立工業学校校歌」で、明大校歌はそれに続くものである。音楽的にも評価の高い作品であるにもかかわらず、当人も研究者も重きを置いていないのは不審である。

八十加筆の検証

耕筰は花外の歌詞を手にして、牛尾に野口雨情と八十の名を挙げて加筆を依頼するよう指示するが、雨情は不在で八十に頼むことになった。自宅を訪ねた牛尾に、八十は、一旦花外によって作り上げられたものに筆を加えることは、好ましくないと固辞した。牛尾を諭す、その時の感銘深い八十の言葉を「牛尾回想記」は次のように記している。

元来校歌と云うものは他人に依頼すべきものではなく、自分達の間の押へ難い情熱から其学校に生まれたものでなければならないと思ひます。かの仏蘭西の国家()は同国の一歩兵の報国精神から生れ出たものだと云う事です。自分達の間に生まれたものであるならばたとへそれは拙くてもよい。その中に包蔵さるる力と熱が尊いのです。春の雨を受けてすくすく伸びる芽を御覧なさい。見所は如何にも弱々しい様でもその中に包まれている伸びんとする力は 恐ろしいものです。

それでも、牛尾の熱願に八十は一応預かり置くことを承知した。

「武田回想記」には、「西条先生は、他の人のものに手を加えることを好まれなかったのを、それを無理にお願いしてできたのが、今歌っているあの歌詞である」と注目すべき記述がある。さらに、牛尾と武田への取材をもとにまとめられて「朝日新聞」に掲載された「明治大学校歌ー熱血詩人の会心作」[1.17]においても、八十によって「お茶の水に新月高し」のくだりが消えて「眉秀でたる若人が」が加筆された経緯が紹介されている。

ところが、成立史でも見たように、多くの文献が、花外−八十−耕筰ルートを描いているにも関わらず、八十の加筆内容だけが、『百年史』はもとより、巻末に掲げた様々な参考文献のいずれにも全く出てきておらず、幻となっていた。

八十には、長男で名古屋大学名誉教授の西條八束(やつか)氏が刊行した浩瀚な『西条八十著作目録・年譜』[4.2]や、長女嫩子(ふたばこ)さんの『父西條八十』(中央公論社,昭50)などのエッセイ類、数多くの研究書、『西條八十全集』[4.3]などがある。八十自身、『あの夢この歌』(イウ゛ニングスタ−社,昭和23)他の自叙伝、校歌作詞()や耕筰にまつわるエッセイ()も物している。耕筰との深い縁については様々な文献に見られ、何より、耕筰の作曲目録に登載された八十作詞曲の多さがそれを雄弁に物語っている。牛尾と武田は、耕筰の発案によって八十が加筆したことを鮮明に記憶している。だが、管見する限り八十の文章にも、周辺の文献にも明大校歌については全く触れられておらず、八十側資料から、加筆の依頼を受けたことや、加筆内容、牛尾や武田とのやり取りの様子などについて確証を得ることはできない。

八十にしてみれば、あくまでも加筆であって自分の作品ではないとの意識もあったろうし、花外への遠慮或いは配慮があったことは想像に難くない。それにしても何らかの裏付け資料がないものか、今は、刊行途上にある全集の編集過程での新発見に期待をつなぐしかない。

筆跡の検証

校歌の成立に直接関わった人物は、これまで見てきたように、花外にはじまり、八十、耕筰に、あえて露風も加えれば4名となる。次にこれらの人物の筆跡を検証してみることにした。

幸いなことに文学者の筆跡については、『文士の筆跡』[2.5]という格好の資料がある。その第3巻が詩人編で、花外、八十、露風の三人が揃って掲載されている。花外はこの他に、「牛尾回想記」や、『児玉花外社会主義詩集』[2.3]にも見ることができる。八十は『西条八十著作目録・年譜』や、偶然にもこの騒動の最中に図書館で就職部から寄贈を受けた『山一証券史』[4.1]収録の「山一証券株式会社々歌」があり、耕筰には図書館と日本近代音楽館山田耕筰文庫所蔵の「自筆譜」[1.1][1.2]や、「駿台文学」[1.6]の表紙を飾った原稿写真等がある。

この調査の結論から述べれば、耕筰および花外と露風の字体はそれぞれに個性的で、句読点の打ち方、升目の埋め方もXの書体とは明らかに異なっている。

  • 八十の筆跡。左は「山一証券株式会社々歌」()、右は今回の原稿
  • 左は露風の筆跡()、右は花外の筆跡(

次に八十の筆跡を見ることにする。『文士の筆跡』に収録された大正10年の「雪女」と昭和2年の「電車の中で」及び、同32年の『山一証券史』収録の「山一証券株式会社々歌」とXを対照してみるとは、いずれも一見して、八十のペン字の特徴である「さわやか」()な雰囲気の相似性を強く印象付けられる。とりわけ「山一証券株式会社々歌」から醸し出される五七調のテンポと歯切れのよさは、「白雲なびく」の音楽性と共通のものであると感じられる。一字一字子細に対照したところ、「や」の縦棒が異常に短い、「れ」の右のたれた部分が跳ね上がる、「が」の点々が右の「ゝ」と一筆となって右上がりになる、句点の下が開いて馬蹄形風になるなど、次々と明確な類似点が拾い出され、いささか興奮させられる思いであった。

以下にそのサンプルを例示する。上段が「電車の中で」から抽出した文字、下段がXである。

こうした上で、西條八束氏に、コピーを添えて照会した。すると、7月19日付けで次のような、文字通りお墨付きともいうべき返信を頂くことができた。

特にひらがなの筆跡などをみますと、父のものであることは、まちがいないと存じます。オリジナルを拝見しなくても、確認したものとして頂いて結構と存じます。全集は十八巻中、九巻まですんだところですが、将来こちらから、このコピーを 全集に入れることをお願いするようなこともあるかと存じます。その節は何分よろしくお願い致します。

この調査の途上、偶然にも上野の旧東京音楽学校奏楽堂で、「山田耕筰展」が開催され()、ここで耕筰の沢山の自筆譜と、昭和11年の八十の自筆原稿を参観する機会に恵まれた。『山田耕筰作品資料目録』[3.2]では、本学図書館所蔵の譜面を「自筆譜?」記述し、自筆とすることに疑問を呈している。しかし、展覧会場に明大自筆譜のコピーを持ち込んで、展示の自筆譜と照合した限りでは、確かにト音記号の形状等に感じの違う楽譜もないわけではなかったが、反面極めて類似しているものもあり、全音符や「#」の書き癖、とりわけローマ字のサインと平仮名の筆跡においては、疑う余地がないものと思われた。また、八十の原稿についても、前述の鑑定と同じ特徴を見い出すことができたのは幸いであった。

Xにはいくつか推敲の後が残されている。1番の「眉秀でたる若人が」には鉛筆で丸かっこが付され、2番では「六千の児(じ)の」を消して、鉛筆で「我等健児の」に直し、3番でも「時代の夢を破るべく正義の鐘をうちて鳴らさむ」とあるのを、脇に鉛筆で「先達の意気高らかに 文化の使命叫ぶ哉」と書いて消し、さらに「うちて」の「て」を鉛筆で消している。この鉛筆書きの筆跡と本文のペン書きの筆跡とは明らかに異なっている。

なお、欄外にペンでリード線を引き、「又は「おもき使命の鐘を鳴らさむ。」と記しているのは本文と同一筆跡である。そこで、鉛筆による推敲の筆跡を耕筰の筆跡と照合してみた。Xで鮮明に残っているのは「我等健児の」である。左がXから右がCから採録したものである。ほぼ間違いなく、耕筰の筆跡と断定できる。

これを裏付けるもう一つの証拠として原稿の出所を挙げることができる。Y書店の今回の原稿が掲載された古書目録を子細に見ていると、他の原稿写真で今回の原稿と同様の位置に、似たような形でホッチキス止めの跡のあるものが数点あることに気づいた。それは、土井晩翠の「高等無線工学学校々歌」と、北原白秋の「松島音頭」の自筆歌稿筆であった。

それを『山田耕筰作品資料目録』で検索してみたところ、いずれも耕筰が作曲をしている作品であることが分かった。Y書店からは、原稿の入手経路が業者間の市であると聞いていたが、再度照会したところ、今回の原稿と上記の晩翠、白秋の自筆原稿は歌ばかり5〜6点まとまって出品された同じ束の内であるとの返答があった。Xの出所を耕筰周辺と見ることも間違いなさそうである。

まとめ

以上の結果、今回購入したXは、八十の自筆原稿に、耕筰の手の入ったものと結論付けられる。このことは、筆跡によって裏付けられ、牛尾と武田の回想とも整合する。

歌詞の成立経過を図式化すると次のようになる。

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  tex2html_wrap_inline369              
               
現行の歌詞

白雲なびく駿河台
  眉秀でたる若人が
  撞くや時代の暁の鐘
  文化の潮みちびきて
  遂げし維新の栄になふ
  明治その名ぞ吾等が母校
  明治その名ぞ吾等が母校

権利自由の揺籃の
  歴史は古く今もなほ
  強き光に輝けり
  独立自治の旗翳し
  高き理想の道を行く
  我等が健児の意気をば知るや
  我等が健児の意気をば知るや

霊峰不二を仰ぎつつ
  刻苦研鑽他念なき
  我等に燃ゆる希望あり
  いでや東亜の一角に
  時代の夢を破るべく
  正義の鐘を打ちて鳴らさむ
  正義の鐘を打ちて鳴らさむ
耕筰は花外の草稿を受け取った後、独自にBを考えたが、結局は八十の加筆したXに些細な修正を加えてDに調整し、さらに、作曲の段階で「い えい」以下のリフレーンを追加して、Cに仕上げたと見るべきであろう。それもやがてリフレーン部分が消え、最終フレーズの「われらが誇り」が 変形して、Eに落ち着いていった。

いつの時点からEが歌われるようになったかは詳らかではないが、すでに大正11年の段階でEと殆ど同様の歌詞を掲載したものがある一方で、それ以降の印刷物ではリフレーンを省いたCの歌詞を多く見かける。さらに、昭和6年の『山田耕作全集第7巻』[3.1]に収録された歌詞は、譜面上はCとほぼ一致するにもかかわらず、巻末にはXが掲載されている。この混乱は大変に興味深い。後年、武田は病床の耕筰を見舞って、リフレーンの変形を詫びた。これに対して耕筰は、「うたいやすいように変わるのが自然」()と応えている。いずれにせよ、歌詞の成立と変遷にはいくつもの謎があり、どれをもって原詞あるいは定稿とすべきかは、にわかには決しがたい。曲についても、自筆譜と称されるものが本学図書館と日本近代音楽館に存在しており、原譜の同定といった問題も残されている。これらについては、いずれ稿を改めて考察したい。

今回の原稿が花外の自筆歌稿でなかったことは残念ではある。しかし、思わぬ展開から実質的な作詞者ともいうべき八十の関与の様相が判明した。加筆あるいは補作者としてその名が伝えられながら、実体が不明であっただけに、この原稿のもつ意味は大きい。

八十は純粋な象徴詩人と歌謡作詞者の両側面を持つ「豊饒潤沢」()の作家である。母校早稲田大学の第三応援歌や横浜市立大学校歌、飯田市市歌など、耕筰と同じ400近い社歌・校歌類と、三千余とも云われる歌謡曲を作詞している。八十がそうしたジャンルに盛んに手を染めるようになったのは、大正末期からである。大正9年といえば、前年に第一詩集『砂金』を出版し、旺盛な詩作と雑誌「赤い鳥」への童謡の寄稿などにより大正期の代表的な詩人としての地歩を固め始めた時期である。こうした時に、たとえ加筆とはいいながら、校歌の作詞に関与したことは、八十文学を論じる上でも注目される事柄といえよう。

花外はこれだけ改作されながらも、自分の作詞と喧伝されることに終生誇りをもっていた。大正13年にはじめて父租の地を踏んだ花外は、甥の白藤薫に「私の詩は明治40年ですでに終わり、それ以後の作品は「明治大学校歌」を除けば、すべて自分の呟きでしかない」()と語ったという。

武田と牛尾もまた、花外の草稿が八十によって大幅に加筆されたことを承知しながら、熱血の社会主義詩人児玉花外の作詞であるといって憚らなかった。ここに、「権利自由」の高邁な理想を掲げた明大健児の意気を感じるのは私だけではあるまい。先に花外の原詞はキーワードを残すだけと書いたが、むしろ花外のキーワードこそが一瞬にして明大の建学の精神を捉えたもので、八十もまたよくそれを残したというべきであろう。

そこに、八十の「独立自治」が親和し、比類なき校歌歌詞が成立したのである。原作者児玉花外の名と共に、音楽的にも輝かしい光彩を与えてくれた西條八十の功績もまた、永遠に顕彰されなければならない。

付記本稿執筆に当たっては、多くの方々から、貴重なご教示と資料提供を頂いた。記して深謝申し上げる次第である。

西條八束氏、Y書店専務、深井人詩氏(早稲田大学図書館)、佐藤徹夫氏(国立音楽大学図書館)、樽見博氏(日本古書通信社)、玉井宏夫氏(東明会支部長)、小野塚喜紀氏(人事部長)、鈴木秀幸氏(歴史編纂事務室)、渡辺俊子氏(元歴史編纂事務室)、高山茂樹氏(学長室)、長峰洸氏(情報システム課長)、今井昌雄氏(図書館庶務課)、浮塚利夫氏(文献情報課)、山口県長門市立図書館、山口県立図書館、日本近代音楽館、国立国会図書館。

また、文中に例示した筆跡の掲載に当たっては、二玄社、山一証券 株式会社、世界文庫からご快諾を頂いた。

明治大学校歌関係文献目録

  1. 校歌関係

    1. [山田]耕筰.明治大学校歌.(大9.10,3p,31×27cm)
      • 日本近代音楽館所蔵の自筆譜、鉛筆書
    2. 山田耕筰.明治大学校歌.(5p,34×27cm)
      • 明治大学図書館所蔵の自筆譜、ペン書。
    3. 明治大学校歌.(「明治大学学報」50,大9.11.15,p.3)
    4. 明治大学校歌.(「駿台」1,明大扇港実業会, 大11 ,巻末1p.)
    5. 月岡夕美.明治大学校歌(校歌寮歌応援歌画集).(「中学世界」30(4),博文館,昭2.3.1,p.26-27)
    6. 山田耕作氏が校歌作曲に用ひた原稿.(「駿台文学」2(11)明治大学五十周年記念号,駿台文学社,昭6.11.1,p.表紙)
      • B原稿写真、原稿の所在は不明。
    7. 牛尾哲造.校歌の生まれるまで.(「駿台文学」2(11),昭6.11.1,p.26-30)
    8. 校歌を廻りて.(「駿台文学」2(11),昭6.11.1,p.28-29)
    9. 校歌乃由来.(『諸団体沿革記録』,半紙,昭6.4〜11.3頃,第1〜4丁)
      • 明治大学歴史編纂事務室所蔵の学友会関係の手書きの綴り。作成年月は記載されていないが、武田孟を現明大助教授と記述しており、武田の助教授在任が昭和6年4月から11年3月であることから、その間の成立と推測できる。
    10. 校歌の由来.(『明治大学五十年史』,明治大学学報発行所,昭6.11.15,p.36-37)
    11. 校歌の由来.(『明治大学六十年史−紀元二千六百年奉祝』,明治大学,昭15.11.18,p.40-41)
      • 『明治大学五十年史』とほぼ同一内容であるが、耕筰が記念館大講堂で口授し、持参の太鼓を本学に寄贈した(関東大震災で消失)ことが付け加えられた。
    12. 校歌物語.(「紫紺」26年度版,明治大学応援団,昭26.4.9,p.18)
      • 校歌完成後、大学当局がこれを許さなかったのを、春日井薫ら熱心な学生の希望によってようやく認めたとある。
    13. 山田耕筰.白雲なびく駿河台−校歌物語.(「紫紺」33年度版,昭33.4.11,p.4)
    14. 春日井薫.叱られた話.(『木下友三郎先生追悼録』,木下友三郎先生墓碑建立協賛会,昭34.11.23,p.53-63)
    15. 武田孟.校歌と先生と私.(『木下友三郎先生追悼録』,木下友三郎先生墓碑建立協賛会,昭34.11.23,p.100-103)
      • 校歌制定について木下学長を説得する経緯。
    16. 武田孟.校歌「白雲なびく」物語 (1)−(4).(「週刊明治大学新聞」)
      • (1)一高寮歌に刺激され(第935号,昭37.5.10,第2面),(2)熱血詩人花外が作詩(第936号,昭37.5.17,第2面),(3)山田耕筰快心の作曲(第939号,昭37.6.7,第4面),(4)学生だけの手で完成(第940号,昭37.6.14,第2面)
    17. 明治大学校歌−熱血詩人の会心作(東京のうた103).(「朝日新聞」東京版(都心),昭43.5.29,第16面)→朝日新聞社編『東京のうた−その心をもとめて』(朝日新聞社,昭43.8.27,に再録)
      • 牛尾と武田からの聞き書きで、校歌誕生のエピソードを紹介。
    18. 團伊玖磨.校歌(1)(日本の歌51).(「週刊読売」35(14),昭51.3.27,p.98-99)→團伊玖磨著『好きな歌・嫌いな歌』(読売新聞社,昭52.1.20,に再録)
      • 早稲田大学校歌、明治大学校歌、法政大学校歌
    19. 校歌ものがたり−明治大学、法政大学(「週刊読売」35(27),昭51.6.26,p.76)
    20. 武田孟.「白雲なびく」誕生の秘話−山田耕筰氏笹川臨風氏(めぐりあい).(「毎日新聞」夕刊,昭54.1.29,第3面)
    21. ”白雲なびく駿河台”校歌誕生.(明治大学創立100周年記念事業委員会、歴史編纂委員会編『図録・明治大学百年』,明治大学,昭55.11.4,p.90-91)
      • 記念館で指揮をとる耕筰、耕筰を囲む武田と牛尾、晩年の花外、花外が書いた即興詩の揮毫、等の写真を掲載。
    22. 校歌・社歌などの秘話いろいろ.(『この道−山田耕筰伝記』,社団法人日本楽劇協会編,恵雅堂出版,昭57.4.20,p.301-302)
      • 神田駿河台下の老舗砂糖卸商稲垣伝次郎の話として、「先輩や学生に私たちカンパして、十銭、二十銭とかき集めて作曲、作詞料にあて」、耕筰に400円、花外に200円を支払ったとある。
    23. 明治大学百年史編纂委員会編.『明治大学百年史第1巻史料編1』.(明治大学,昭61.3.31,916p,A5版)
      • 校歌募集・制定p.512-513、児玉花外先生校歌原稿 p.819、山田耕筰先生加筆の草案(児玉花外作詩) p820、原符 p820-821、原符の改正p.821-822
    24. 学友会と校歌制定.(明治大学百年史編纂委員会編『明治大学百年史第3巻通史編1』,明治大学,平4.10.15,p.567-577)
    25. 中村雄二郎.明大校歌誕生の周辺.(明治大学学生部編『CAMPUS HANDBOOK1996』,明治大学,平8.4.1,p.89-90)
  2. 児玉花外

    1. 思ひ出は涙を誘い−花外翁うつとり−明大生が慰めに校歌演奏”義金美談”実を結ぶ.(「東京日日新聞」夕刊,昭11.6.21,第4面)
    2. 老いの身に沁む自作の詩−花外翁に明大生の慰問演奏.(「朝日新聞」,昭15.11.17,第7面)
    3. 岡野他家夫編.『児玉花外社会主義詩集(明治文化叢書)』.(日本評論社,昭24.11.5,226p,B6版)→昭37.5.15に世界文庫から世界文庫選書1として復刻
      • 略年譜で校歌の作詞を大正12年としている。
    4. 井伏鱒二.上脇進の口述.(「小説新潮」19(7),新潮社,昭40.7.1,p.362-370)→「児玉花外(上脇進の口述)」と改題して、『人と人影』(現代日本のエッセイ)毎日新聞昭47.5.5、『井伏鱒二全集第7巻』筑摩書房昭40.8.30等に再録)
      • 校歌作詞と慰問演奏に触れる。花外の「白雲なびく」執筆を「大正11年か12年ごろではなかったか」としている。
    5. 木俣修編.『文士の筆跡三詩人編』.(二玄社,昭43.6.15,195p.B5版,昭61.6.30に新装版。)
      • 児玉花外p.34-35、三木露風p.49-51、西条八十p.89-91、詩人の筆跡(松井如流)p.182-191
    6. Y・M.知られざる詩人児玉花外(大学史おちぼ集2).(「明治大学学園だより」2,昭46.7.1,p.4)
      • 校歌作詞を大正19年としているが、9年の誤植か。
    7. 東明会事務局.晩年の児玉花外.(「明治大学校友会々報」,昭48.3.15)
      • 後掲の2.15 に拠るが未見。
    8. 児玉花外(2).(『不二美巻2』渡辺信勝著・編,神奈川県中伊豆町:大見山上行院,昭51.4.28,p.243-347 )
      • 花外の葬儀録、書簡(発、受)、関係書簡、遺稿集を収録。葬儀録には鵜沢聡明の名がある。花外宛書簡には昭和11年の鵜沢総長以下、専務理事、理事、監事連名の年賀状を収録。
    9. 谷林博著.『児玉花外その詩と人生』.(山口:白藤書店,昭51.12.1 253p,A5版)
      • 明治大学の校歌「白雲なびく」p.190-193,明治大学生花外を見舞う,p.220-222
    10. 和田健.明治の熱血詩人児玉花外の墓碑−長門市大寧寺に建立へ−9月20日に入魂式(今月の読書室やまぐち文芸往来).(「毎日新聞」(山口),昭52.7.14,第17面)
      • 墓碑建立と武田のことなど。
    11. 大寧寺に花外の墓−明大総長など迎え建墓法要.(「長門時事」,山口県長門市:長門時事新聞社,昭52.9.17,第2面)
      • 「児玉花外先生之墓明治大学総長武田孟」と彫られた墓碑写真を掲載。
    12. 花外秘話も数々披露−建墓除幕−明大校歌斉唱で盛上げ.(「長門時事」,昭52.9.24,第2面)
      • 墓碑竣工及び法要は9月20日。花外35回忌。
    13. 児玉花外の墓碑−”父祖の地”長門大寧寺に.(「山口新聞」,昭52.9.25,第2面)
      • 武田総長夫妻の出席と、明大マンドリン倶楽部OBによる校歌演奏。墓碑写真を掲載。
    14. 大寧寺に児玉花外の墓建立(長門の話題).(「広報ながと」387,昭52.10.1,p.8)
      • 法要の写真を掲載。
    15. 野々山三枝、吉田文子.児玉花外.(昭和女子大学近代文学研究室著『近代文学研究叢書第52巻』,昭和女子大学近代文化研究所,昭56.5.31,p.21-106)
      • 生涯、著作年表、業績、資料年表、遺族・遺跡を収録。校歌の作詞を大正12年としている。
    16. 桑原伸一編.『児玉花外詩集−在山口未公刊詩資料(文芸山口双書Vol.9)』.(山口:白藤書店,昭57.7.30,317p,B6版)
      • 詩の他に、略年表(p.282-317)、墓碑写真等を収録。
    17. 穀田恵子.児玉花外と仙台(ページのなかのせんだい62).(「仙台市政だより」1495,仙台市,平8.5.1,p.14)
      • 校歌制定経過を紹介し、明治大学図書館所蔵の耕筰自筆譜写真を掲載。
  3. 山田耕筰

    1. 山田耕作編.『山田耕作全集第7巻国民歌謡曲集』.(春秋社,昭6.3.10,B5判)
      • p.162-165に楽譜、p.206に歌詞。歌詞3番の「正義の鐘をうち鳴らさむ」の後に丸括弧書きで「又は、おもき使命の鐘を鳴らさむ。」とある。各番の最後の「明治」以下のフレーズは、1番が「その名ぞわれらが母校」、2番が「その名ぞわれらが心」、3番が「その名ぞわれらが希望」となっている。
    2. 遠山音楽財団付属図書館編・刊.『山田耕筰作品資料目録』.(昭59.11.1,680p,B5版)
  4. 西條八十

    1. 西條八十.山一証券株式会社々歌.(山一証券株式会社社史編纂室編『山一証券史』,山一証券株式会社,昭33.11.3,巻中図版)
      • 昭和32年制定、八十の自筆原稿を掲載。
    2. 西条八十著作目録刊行委員会編.『西条八十著作目録・年譜』.(名古屋:西条八束,昭47.6.1,496p,A5版変形)
    3. 西條八十著.『西條八十全集全18巻(予定)』.(国書刊行会,平3.12.〜,A5版)
      • 第10巻に「歌謡・民謡3社歌・校歌」、16巻に「随筆・小説」、17巻に「随想・雑纂・日記・書簡」、別巻に「著作目録・年譜」を予定しているが未完.

  5. 武田孟、牛尾哲造、春日井薫

    1. 『武田孟教授古稀記念論文集』(「明大商学論叢」50(6・7・8),明治大学商学研究所,昭42.6.10,350p,A5判)
      • p.341-350に略歴および著作目録を収録。
    2. 松尾憲橘.武田孟論.(『明治大学、人とその思想』,明治大学新聞学会,昭42.11.11,p.233-240)
      • 校歌制定の経緯に触れる。なお、本書第二編の「明治大学年表」(宮川康)は、校歌の成立を大正9年5月としている。
    3. 一泉知永.春日井薫論.(『明治大学、人とその思想』,明治大学新聞学会,昭42.11.11,p.249-256)
      • 校歌生誕の産婆役をつとめたとある。
    4. 『春日井薫博士古稀記念論文集』(「明大商学論叢」53(3・4・5・6),明治大学商学研究所,昭45.9.26,488p,A5判)
      • p.453-488に略歴および著作目録掲載。
    5. 牛尾哲造.(『人事興信録第28版上』,人事興信所,昭50.4,p.う71)
    6. 牛尾哲造.(「毎日新聞」,昭60.11.2,第21面)
      • 訃報
    7. 校歌生みの親の牛尾哲造氏逝去.(「明治大学広報」211,明治大学,昭和60.11.15,第2面)
    8. 牛尾哲造.(日外アソシエーツ編・刊『ジャパンWHOwasWHO−物故者事典1983〜1987』,昭63.3.25,p.93)

補注

本稿を脱稿し、編集・割付も終了した段階で、『西條八十全集 第10巻 歌謡・民謡/社歌・校歌』(平成8.11.25)が刊行され、森一也氏執筆の解説で、森氏が八十から作詞の秘話を聞いていることと、八十自身が晩年の随筆でそのことに触れていることを知った。その後、森氏と連絡がとれ、詳しい事情を伺うことができた。森氏は日本コロンビアレコ−ド専属の作曲家であるが、戦前に本学の付属中学に学ばれ、明大講堂で山田耕作の音楽講座に出席したこともあるとのことで、あまりの奇遇に驚かされた。これらついては整理・検証の上、改めて報告したい。

飯沢
いいざわ・ふみお/図書館庶務課
児玉花外
こだま・かがい、明治7〜昭和18
山田耕筰
やまだ・こうさく、明治19〜昭和40、昭和5年に耕作から耕筰に改名。
武田孟元総長
たけだ・つとむ 明治29〜平成2 松屋製 当時本郷にあった文具店の原稿用紙で、相馬屋製と共に文学者が好んで使った。
牛尾哲造
うしお・てつぞう、明治30〜昭和60、日刊スポーツ専務、スポーツ文化通信社社長
西条八十
さいじょう・やそ、明治25〜昭和45、牛尾[1.7]及び『百年史 第3巻』が八十の住まいを本郷の「駕篤町」としているのは「駕籠町」の誤り。
「更に耕筰の創意を織り交ぜ」
牛尾哲造.校歌の生まれるまで(「駿台文学」2(11))[1.7]
1行を脱落
『百年史』第1巻・資料編1には、脱落を補って収録しているが、その出典は不明である。
第二は、
春日井薫元総長 かすがい・かおる、明治33〜昭和56
三木露風
みき・ろふう、明治22〜昭和39
かの仏蘭西の国家
筆者注:国歌の誤植か
校歌作詞
校歌(「毎日新聞」夕刊、昭和39.4.23)
耕筰にまつわるエッセイ
山田耕作(「朝日新聞」、昭和25.10.8)
八十の筆跡。左は「山一証券株式会社々歌」
『山一証券史』(山一証券株式会社)[4.1]より
左は露風の筆跡
木俣修編.『文士の筆跡 三 詩人編』二玄社)[2.5]より
右は花外の筆跡
岡野他家夫編.『児玉花外社会主義詩集』(世界文庫)[2.3]より
「さわやか」
『文士の筆跡 三 詩人編』[2.5]所収の解説「詩人の筆跡」(松井如流)。
開催され
平成8年11月2日〜12月15日、奏楽堂秋の特別展日本の作曲家シリーズ5
に大正11年の段階でEと殆ど同様の歌詞を掲載したもの
「駿台」1(明大扇港実業会)[1.4]
耕筰は、「うたいやすいように変わるのが自然」
明治大学校歌−熱血詩人の会心作(「朝日新聞」)[1.17]
「豊饒潤沢」
前川知賢『西条八十論』,弥生書房,昭和60
「明治大学校歌」を除けば、すべて自分の呟きでしかない」
野々山三枝,吉田文子.児玉花外.(『近代文学研究叢書 第52巻』)[2.15]

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