図書の譜(明治大学図書館紀要)1号

「日本近代文学文庫」の初版本

はじめに

昭和三年に予科長に就任されて以来、新制大学に移行する昭和二十四年三月までずっと予科長として活躍された小林秀穂先生の功績を称えて、明治大学図書館和泉分館に「小林文庫」が設置されたのは昭和二十年代の中頃だったようである。当初は小林先生と御遺族から寄贈された約100冊ほどの図書で構成されていた。しかし、この小林先生から寄贈された図書の分野は多方面にわたっていて、特に日本近代文学の初版本をこの文庫に蒐集する必然性はなかったように思う。したがって「小林文庫」に近代文学の初版本を集めると云う方針の決定には図書館サイドの意向が強く働いていたものと考えられる。

昭和二十年代の後半から昭和三十年代の前半にかけて、書庫内の既蔵の図書の中から然るべきものを移籍したり、古書店から購入するなどして「小林文庫」の資料の充実に努めたようである。

昭和三十五年四月に図書館和泉分館の落成記念として「近代日本文学文献展示会」が開催された。この時に発行された「出品目録」によって当時の「小林文庫」に所蔵されている資料の内容が瞥見出来るが、遺憾ながら見るべきものはあまり多くはない。

かくして、平成二年に詩人でフランス文学者であった元文学部教授佐藤正彰先生から御寄贈頂いた蔵書をこの文庫に組み入れる事により質量ともに飛躍的な充実を見ることとなった。そして、これを機会に文庫名を「日本近代文学文庫」と改称して現在に至っている。今や蔵書数は 6,000冊を越え、きわめて貴重な資料も数多く所蔵されている。それらの中から、今年生誕百年を迎え、何かと話題の多い宮澤賢治の著作を紹介してみることとする。

『春と修羅』

請求記号
154/M18-1//L

大正十三年四月二十日發行、定價 貳圓四十錢、著者 宮澤賢治、發行者 關根喜太郎、印刷者 吉田忠太郎、發行所 關根書店。四六判、布装、箱付き、320頁。

關根書店名義にしたのは配本の便宜のためといわれている。大正十四年二月九日付けの森惣一への手紙に“前に私の自費で出した『春と修羅』も・・・”と賢治自身が書いているように実際は賢治の自費出版であった。

『春と修羅』の出版に奔走したのは賢治とは義理の兄弟にあたる關登久也(本名、岩田徳弥)であった。『春と修羅』の装幀について關は賢治の研究雑誌である『イーハトーヴォ』に寄せた「賢治素描」の中で次のように書いている。

“表紙は青黒いザラザラした手ざわりの物が欲しいと申して居りましたが、なかなかそんなものは見あたらず、丁度その頃私が商用で大阪へ参りました時、歌人 尾山篤次郎氏のお世話で、私の友人富谷三郎君にあの布地を見つけてもらひました。賢治氏の希望に合ふのは唯ザラザラした手ざわりのところだけで色などは全 然違ひます。”

アザミの図案は広川松五郎の手になるものである。關はせめてこの図案で賢治の希望であった青い地色を出そうとしたが、布地がザラつくので色はちっとも地にのらず薄い色になってしまい結局失敗してしまった。

關が若い頃に尾山篤次郎門下の歌人であったゆかりで背文字は尾山がマッチの軸で書いてくれた。しかし、一番上の角書きの「心象スケッチ」と書くべきところを誤って「詩集」と書いてしまった。外箱とタイトルページはちゃんと「心象スケッチ」となっている。

これについて賢治は先に引用した、森惣一宛の手紙の中で次のように書いている。

“詩の雑誌御発刊に就いて、私などまで問題にして下すったのは、寔に辱けなく存じますが、前に私の自費で出した『春と修羅』も、またそれからあと只今まで書きつけてあるものも、これらはみんな到底詩ではありません。私がこれから、何とかして完成したいと思って居ります或る心理学的な仕事の仕度に、正統な勉 強の許されない間、境遇の許す限り、機会のある度毎に、いろいろな条件の下で書き取って置く、ほんの粗硬な心象スケッチでしかありません。─中略─  出版者はその体裁からバックに詩集と書きました。私はびくびくものでした。亦恥ずかしかったためにブロンヅの粉で、その二字をごまかして消したのが沢山あります。”

關根喜太郎が發行者になることを引き受けたのは關と関係が深かった尾山の紹介によるものらしい。この關根については昭和四十八年に筑摩書房から出版された『校本 宮澤賢治全集』の第七巻の月報に『鐘は上野か』と題した詩人高橋新吉の次のような文章が掲載されている。

“私は、『春と修羅』を、賢治の生前出版した関根喜太郎氏には、度々あっている。刀江書院の支配人のような位置に、晩年関根氏はなって、神田の駿河台にあった店に通勤していた。私の『戲言集』を、沖縄の人與座弘晴氏が発行したのは、関根氏のはからいであった。私は、関根氏の自宅へ行ったこともある。まもなく、関根氏は自殺して果てた。”

印刷は花巻停車場通りで印刷業を営んでいた吉田忠次郎が行った。雑誌「四次元」に掲載された小倉豊文の「『春と修羅』初版について」と云う論文にはこの間の消息が次のように記されている。

“吉田忠太郎という人は花巻の印刷屋さんで花巻駅前通りにあり、当時そこはまだ花巻町と合併せられず、花巻川口町と称していた。賢治の家もやはり同町内である。田舎町の印刷屋のことであるから 手刷の小さな機械しかなく、殊に詩集などの印刷には馴れていなかったので、賢治の苦心も少なからぬものがあったらしい。原稿を渡して印刷がはじまると、賢治は殆ど毎日校正やその他の手伝にこの印刷屋に通い、往復の途次には 校正刷を持って関登久也の店に立寄り、詩を読んで聞かせては批評をもとめるのが 例であったという。校正を何校までとったか今では知っている人もなく、校正刷も 印刷原稿も残って居ないが、出来上がったものには可成に誤植が多い。印刷者の吉田忠次郎も恐縮していたが賢治自身は「正誤表をつけるからいい」とて、気にしていなかったという。その正誤表が奥付の裏頁につけられており、二十ヵ所訂正されている。しかし、その他にも誤植 らしい所が随分多い。─中略─  猶、この初版本は一千部印刷し、その印刷代 金は三回ほどに分割して賢治から印刷屋に支払われた由であるが、その総額が何程であったか明らかでない。又、一千部刷りは刷ったものの、関氏などの苦心努力にもかかわらず、百部も売れなかったとのことである。”

賢治が殆ど毎日のように印刷屋に通ったのは校正や手伝いももちろんあったとは思うが、同時に、自分の作品が初めて一冊の本になると云う、うきうきするような喜びも強かったに違いない。最終的にあれだけの誤植があった事を思うと、校正や手伝いと云うよりもむしろ生まれてくる子供を待ち望むのと同じような気持ちで通っていたのではないだろうか。

かくして『春と修羅』は、どうも出来上がりは賢治の意図したものとは大分異なったものであったようだ。しかし、賢治は關に対しては“少しも悪い顔をせず「有難たう」「有難たう」とばかり云った”ので關は“その度毎に「申訳ない」「申訳ない」と思った”と記している。

こうした経緯で世に出た『春と修羅』であったが、世評はあまり芳しいものではなかったようである。『注文の多い料理店』の挿画装幀を行った菊池武雄は昭和九年一月に発行された『宮澤賢治追悼』の「賢治さんを思ひ出す」の中で次のように述べている。

“『春と修羅』の出来た当時のこと、いろいろ関係のあった先輩や友人に記念として本を贈呈した。幸いに中央では辻、佐藤の両大家が大いに問題にしてくれて新聞などにも激賞の文字を載せて下さったりしましたが、国の方ではヒッソリとして反響のないこと夥しい。無論賢治さんも 「どうせ自分だけの心持ちを勝手にスケッチしたんだから外の人には解らない筈だ」といって居られたけれども──それにしてもあんまりだと思はれるのは、当時郷里の某女学校の校長といふ人からの贈本の御礼に「──過日は『春と修「養」』お贈り下され有り難く拝見時節柄 (其の頃丁度春でした)好適の書と存じ云々」文句は忘れたが何でもこんな 意味の鄭重なる礼状、これには賢治さんもすっかり参ったといって笑って 話したことがあります。”

『春と修羅』を最初に紹介したのは辻潤で、大正十三年七月二十三日と七月二十四日の讀賣新聞紙上の『惰眠洞妄語』の(二)と(三)に次のように書いた。

“宮澤賢治と云ふ人は何處の人だか、年がいくつなのだか、なにをしてゐる人 なのだか私はまるで知らない。しかし、私は偶然にも近頃、その人の『春と修羅』と云ふ詩集を手にした。近頃珍しい詩集だ、──私は勿論詩人でもなければ、批評家でもないが──私の鑑賞眼の程度は、若し諸君が 私の言葉に促されてこの詩集を手にせられるなら直にわかる筈だ。
私は由來氣まぐれで、甚だ好奇心に富んでゐる──しかし、本物とニセ物の區別位は出來る自信はある。─中略─若し私がこの夏アルプスへでも出かけるなら、私は「ツアラトウストラ」を忘れても「春と修羅」を携へることを必ず忘れはしない。”

同じ大正十三年に佐藤惣之助は雑誌『日本詩人』の十二月号に寄せた「十三年度の詩集」の中で『春と修羅』を取り上げている。

“─前略─僕の云ひたいのは、渡邊渡と宮澤賢治である。前述の人人 (注、室生犀星、尾崎喜八等)は相應に評價され詩集も分布されてゐやう。しかし、「天上の砂」と「春と修羅」はあまりに讀まれてゐない。─中略─「春と修羅」。この詩集はいちばん僕を驚かした。何故なら彼は詩壇に流布されてゐる一個の語葉も所有してゐない。否、かって文學書に現はれた一聯の語藻をも持ってはゐない。彼は氣象學、鑛物學、植物學、地質學で詩を書いた。奇犀、冷徹、その類を見ない。─後略─”

かくして、辻潤、佐藤惣之助等、ごく一部の人々に受け入れられただけで殆ど無視されてしまった『春と修羅』に関して、もう一人の熱心な信奉者であった草野心平は雑誌『群像』の第三巻第五号に次のように書いた。

“詩集『春と修羅』の上梓された大正十三年頃は新感覚派の勃興時代であった。彼の詩は新感覚派的要素をも多分にもってゐて、むしろそれよりも新鮮だった。しかしその本は神田の露店で投げうりされてゐた、売価五銭で。”

和泉図書館の「日本近代文学文庫」にはこの『春と修羅』が所蔵されている。佐藤先生から寄贈されたものである。残念ながら外箱は失われている上に糊も綴じ糸もばらばらとなっていて決していい状態とは云えない。しかし雑誌『イーハトヴォ』に掲載された文章の中にも「日本近代文学文庫」の所蔵本と同じようにばらばらになったと云う記述も見られるので、保存状態もさることながら、もしかすると造本自体に問題があったのかも知れない。

また、「近代文学文庫」の所蔵本には、先に述べた正誤表に依って、各箇所にインクの書き込みがある。これが誰の字であるかは不明だが、この書き込みによって、この本のかっての所蔵者のうち、少なくとも一人は、熱心な読者であったことが証明されている。

『注文の多い料理店』

請求記号
156/M31-1//L

大正十三年十二月一日發行、定價 金壹圓六拾錢、著者 宮澤賢治、挿畫装幀 菊池武雄、發行者 近森善一、印刷者 吉田 春藏、 發賣元 杜陵出版部、東京光原社。四六判、クロス装、194頁。賢治が生前に出版した著作は『春と修羅』とこのイーハトヴ童話『注文の多い料理店』の二冊のみである。講談社の『日本近代文学大事典』によると“実質的に自費出版であることは『春と修羅』のばあいと同じである”となっているが、いささかの疑問なしとしない。以下資料を辿って『注文の多い料理店』が出版された経緯を明らかにしたい。

『春と修羅』刊行に際して、その装幀や印刷など様々な分野で賢治を助けていたのが義理の兄弟にあたる關登久也であったことは前項で述べた通りであるが、『注文の多い料理店』を発行する際にこの關の役割を果たしたのが盛岡高等農林学校で賢治の一年後輩にあたる及川四郎と近森善一であった。

及川は岩手県胆沢郡の出身で父親(実は長兄)は県会議員であった。一方近森は高知県の大地主の息子である。盛岡高等農林学校を卒業後、及川は酪農を始めて、事業は軌道に乗ったものの、共同経営者との軋轢に嫌気がさして東京へ出て一旗あげようと、母校である盛岡高等農林学校の助手になっていた近森に相談に行った。

この相談の結果二人で事業を興すことになった。自分たちの学んだ学問を生かして『害虫駆除剤』を作って売り出すことに決めた。蠅の駆除剤『チカモリン』(近森をもじったのであろう)の誕生である。

この薬剤の宣伝のためにパンフレットを出すことになった。及川が汎論を、近森が各論を十日で書き上げた。書名は『病虫害駆除予防便覧』とした。盛岡市大手先の山口活版所に依頼して、一千部を印刷した。原価が二十三銭ほどだったので五十銭で売った。トンカツが二十銭、天丼が四十銭の時代である。ちなみに当時三省堂の『コンサイス英和辞典』の定價が貳円であったが、『春と修羅』に貳圓四拾錢、『注文の多い料理店』には壹圓六拾錢の定價をつけている。

この、当初二人だけで始めた会社が「農業薬剤研究所」であり「杜陵出版部」でもあり「光原社」でもあった。

大正十三年の秋、近森は『病害虫駆除予防便覧』と『チカモリン』の販売をかねて花巻農学校に出かけて、賢治と意気投合することとなった。

森荘已池が雑誌『イーハトーヴォ』に連載した「注文の多い料理店」と題する論文の中に、この時のことを話した及川の言葉が掲載されている。

“宮澤さんが、『春と修羅』を贈ったら、ある女学校の先生が『春と修養』をありがとうと礼状をよこしたなどと話した後で「童話なら、ナンボでもあるよ」と云って、どっさり書きためてあったその童話の原稿を、近森君に見せたものらしいです。近森君は、その、宮澤さんの書いた、字の大きい童話の原稿を持って盛岡に帰ってきましたので、私たちは、たちまち、「出そうじゃないか」「うん、出そう」と、童話集を出版することにきめました。”

この頃のことであろうか、賢治は花巻農学校の同僚の白藤滋秀にこう語っている。「及川君たちは、どこから金を出すのでしょう。童話集をつくってくれるといいます。」

『注文の多い料理店』の原稿を持ち帰ってから間もなく、近森は総選挙のため郷里に呼び戻されてしまった。これより及川の孤軍奮闘が始まる。

まず刊行資金を、同郷で当時の一流の出版社である光風舘に勤めていた吉田春藏と『商店界』の編集者清水正巳とに見積もってもらい、その結果、一千部八百円で吉田に依頼することになった。高等文官試験に合格した国家公務員の初任給が七十五円だったから、年収にも匹敵する大金である。

刊行資金は『病虫害駆除便覧』と小熊彦三郎著『除虫菊の栽培』を売って得た金を回すことにした。この間の事情を先に引用した森荘已池の論文の中で及川は次のように語っている。

“『注文の多い料理店』は、はじめから東京でつくる筈でしたので製本も紙もとてもこったものでござんした。表紙の紺紙だけは──あまりに高価なので、断念してクロースにしました。校正は東京でし、その上また宮澤さんがしました。本の出来る二十日前に、八百円渡す契約でござんしたが、何しろ大変でござんした。『便覧』と『栽培』の注文が来て、各地から送金があると、すぐそれを東京に転送するといったわけでした。二十円、五円、三十円、三円といった具合で、八百円を二ヶ月間に三十何回に分けて送金しました。” 

このように資金繰りが苦しかったにもかかわらず、及川は宣伝用のパンフレットを三種類作った。それも盛岡では印刷技術のレベルが低く美しく仕上がらないと云うことで東京で印刷した。それぞれ一千部印刷し、盛岡市内の書店の店頭で配布された。これらのパンフレットを作成するには二百数十円もかかったと云われ、及川が『注文の多い料理店』にかけた期待の大きさが伺われる。

現在これらのパンフレットはきわめて資料価値が高い。すなわち『注文の多い料理店』が“十二冊セリーズの一冊”と書いてあることから、賢治が継続的な出版の意志を持っていたことがわかる。また、賢治自身が書いた収録作品の説明はそのテーマを明らかにしているものもあって興味深い。

たとえば『注文の多い料理店』の解説はこうなっている。

“二人の青年紳士が 猟に出て路を迷い「注文の多い料理店」に入りその途方もない経営者から却って 注文されてゐたはなし。糧に乏しい村のこどもらが都会文明と放恣な階級とに対する止むに止まれない反感です。”

また『どんぐりと山猫』は次のように解説をしている。

“山猫拝と書いたおかしな葉書が来たので、こどもが山の風の中へ出かけて行くはなし。必ず比較をされなければならないいまの学童たちの内奥からの反響です。” 

さて、こうした及川達の奮闘にもかかわらず『注文の多い料理店』の売れ行きは芳しくなかった。各地の学校に案内を出したところ“「料理店」と云う名前がよくないから、学校の図書館に置くのはどうか”と云われた。また、装幀をした菊池武雄は“その時送って来た童話の原稿といふのを開いてみると、標題に『注文の多い料理店』と認めてあったので、これが童話の本の名かと思って、一寸私はマゴマゴしましたが、兎に角中を読んでみるとあの通りなのに驚いたので、これならこの標題も却って面白味があっていゝ、しかし「注文は多くないナ」と思っておりましたが果して題が悪く?て、大ていの人は料理の本だと思ったといふ話──思ふやうに売れずに終ひました”と昭和九年に発行された『宮澤賢治追悼』に書いている。

ちなみに、この菊池武雄は岩手県江刺郡の出身で明治二十七年生まれ。賢治の友人で詩人でもある藤原嘉藤治の同僚として小学校で教えていたことがあり、その後藤原の推薦で福岡中学校へ転任した。

賢治から『注文の多い料理店』に絵を描いてくれる人はいないかという相談を受けた藤原が菊池を紹介した。当時は一介の中学校教師にすぎなかったわけだが『注文の多い料理店』の挿画装幀をして間もなく帝展に入選を果たし、その後は東京に出て活躍をした。

この様に『注文の多い料理店』発行の経緯を見てくると『日本近代文学大事典』の“実質的に自費出版であることは『春と修羅』のばあいと同じである”と云う記述に疑問を感じる理由がおわかり頂けると思う。確かに知人友人による出版ではあるが、それは自費出版と呼ぶべきものではなく、通常の出版行為と見る方が自然なのではないだろうか。

近代文学文庫所蔵の『注文の多い料理店』は背表紙の紺紙にやや疲れがみられるものの、全体としての保存状態はきわめて良好である。奥付の後にある既刊目録に『春と修羅』と並んで、近森善一著『蠅と蚊と蚤』が掲載されている。一見奇異に見える取り合わせも、賢治の著作の出版事情を見てくると当然の事のように思われてくるのが楽しい。

『國譯妙法蓮華經』

請求記号
特170-37

昭和九年六月五日發行、非賣品、發行者 宮澤清六、印刷者 山口桓治郎、半紙判、和装、帙入り、280頁、巻末に、宮澤賢治の遺言あり賢治の遺言により、友人知己に寄贈するために1,000部作成し頒布したもので、この間の事情は森荘已池の「賢治と法華経の関係」と云う論文に詳しい。

“─前略─そしてまき紙と筆を持った父に賢治はしずかにゆっくりと、話しはじめたのである。「国訳の法華経を千部印刷して、知己友人にわけて下さい。校正は北向さんにお願いして下さい。本の表紙は赤に──。お経のうしろに、『私の一生のしごとは、このお経をあなたのお手もとにおとどけすることでした。あなたが、仏さまの心にふれて、一番よい、正しい道に入られますように』ということを書いて下さい。」と、花巻弁で云った。
「その法華経は自我偈だけかまた全品をか。」と父は聞いた。「どうぞ法華経全品をお願いします。」と賢治は答えた。─後略─”

実際に国訳の法華経を作る話が具体化したのは昭和九年正月頃で、父、政次郎が自ら足を運んで、盛岡の山口活版所に依頼することになった。かって及川が『病害虫駆除予防便覧』を依頼した印刷所である。費用は1,000部で800円であったという。

ちなみに、この山口活版所で印刷の原本に使用した『國譯妙法蓮華經』は、賢治が大正三年、二十歳の時に読んで身震いするほど感動したという明治書院が発行した島地大等著『漢和対照妙法蓮華經』の大正十五年十月一日發行の第廿七版であった。

“校正を頼むという「北向氏」は賢治の末妹くにさんの主人主計氏の友人で東京で本の校正を職としていた。盛岡で印刷することなると、特に東京に住む北向氏に校正を頼むのは仕事の進行上困難なことだった。”そこで父、政次郎の法友高橋勘太郎の紹介で盛岡の材木町に住む松本日宗と云う日蓮宗の僧侶に依頼することになった。

“この「法華経」には、たった二つだけ誤植があった。三十八頁の十行目、黄金を、黄黄としてあるのと、八十一頁終りから三行目、邪見が雅見としてある”

山口桓治郎によると“題字は名古屋の木津無庵という人が書いたのを、凸版にしました。製本は、うちでしたのではなくて、紺屋町の丸二製本の弟子の藤沼にやらせました。”そして“宮澤さんのお父さんは、この字を、いい字だと、とてもよろこんだそうである。”と森荘已池は書いている。

“法華経は、帙に入れて、ひとに贈ることになった。帙は、町の箱屋に頼んだ。頼まれた阿部芳太郎さんは画家で箱屋だった。さらさのようなきれで、百、二百と造ってはとどけた。─中略─ 戦争中までも、ずっとくばった。戦災で、のこっていた百部ほどは土蔵の中で、火にむされて紙はチョコレートいろにこげたが、奇跡のように残ったので、これも人人におくった。「はじめ、香奠をいただいたところ、交友関係百人以上に贈りました。生前の知己友人、父の知人や、僧侶の方、いろんなところに、くばられました。ほんとうに読むだろうかと思うような人、また遠方からなど、いただきたいと、いってくるのでしたが、私は、贈り先についてはしばしば、父と話し合いました。父は、大事なお経だから、そまつにされると、その人のためにも、よくないからと云うのですが、縁があって、ほしいと云ってきたのだからと、たいていは差上げました。なかなか、その話し合いで、きめるのは、むずかしいことでした。」”

近代文学文庫所蔵の『國譯妙法蓮華經』には裏見返しに墨で昭和二十二年六月八日謹呈菊池康雄様と云う書き込みがある。したがってこの本は土蔵の中で蒸し焼きになった最後の百冊の内の一冊であるに違いない。

当時は父、政次郎と清六の両氏が揮毫していたのでどちらの筆跡かは判断できない。また、上記のような寄贈をしていたのでここに書かれている菊池康雄氏がどういった関係の人であるのかも、残念ながら調べがつかなかった。

おわりに

「日本近代文学文庫」にはこのほかにも貴重な資料が数多く所蔵されているが、それらの資料の整備、保存が十分に行われてきたとは云いがたい。特に資料の紹介や利用の面での立ちおくれが目立っている。講談社の『日本近代文学大事典』に“一〜五まで確認、ただし六号も出ているもよう”と記載されている明治時代の文芸雑誌『新文壇』の六号は「日本近代文学文庫」に所蔵されている。こうした場合「日本近代文学文庫」の資料としてコピーを禁止しているのはやむを得ないが、ただ禁止しているばかりでなく、利用者の利便を図るためにマイクロフィルム化やデジタル化と云った代替手段を用意する必要があるだろう。また、目録の発行も期待される。特殊文庫と云えども利用する事によって更に価値を増して行く、そう云う文庫であって欲しいものだと思う。 

この稿は、図書館庶務課の飯澤文夫氏と整理課の和田さくら氏のご協力なくしては完成しなかった。多大なる御尽力に深く感謝を申し上げます。

主要参考文献

  1. 単行書
    1. 請求記号R910/117//W
      日本近代文学館編『日本近代文学大事典』講談社昭和52年11月〜昭和53年3月
    2. 請求記号P910/43//W
      草野心平編『宮澤賢治追悼』次郎社、昭和9年1月
    3. 請求記号910/2823//W
      『近代日本文学文献展示会出品目録』明治大学図書館、昭和35年4月
    4. 請求記号910/307/b/W
      森荘已池著「賢治と法華経の関係」『復刻版宮澤賢治と法華経』pp.3-70、国書刊行会、昭和62年9月
  2. 雑誌
    1. 小倉豊文著「『春と修羅』初版について」『四次元』第7巻第4号(通巻60号)pp.10-19昭和30年4月(請求記号 P910/137//W)
    2. 草野心平著「宮澤賢治の詩の性格」『群像』第3巻第5号昭和23年5月(請求記号 P905/2//HZ)
    3. 佐藤惣之助著「十三年度の詩集」『日本詩人』第4巻第12号 PP.95-96大正13年12月(請求記号 180/94//L)
    4. 關登久也著「賢治素描」『イーハトーヴォ』第1期第5号〜第13号昭和15年3月〜昭和16年1月(請求記号 P910/43//W)
    5. 辻潤著「惰眠洞妄語」(二)、(三)『讀賣新聞』大正13年7月23日、大正13年7月24日(請求記号 M−407)
    6. 森惣一著「最初の手紙」『宮澤賢治研究』2pp.14-16昭和10年6月(請求記号 P910/43//W)
    7. 森荘已池著「注文の多い料理店」『イーハトーヴォ』第2期第1号〜第6号昭和29年12月〜昭和30年8月(請求記号 P910/43//W)
  3. その他
    1. 請求記号918/70//W
      草野心平著「賢治全集(文圃堂・十字屋書店)の発刊まで」筑摩書房版『宮澤賢治全集』月報第1号〜第4号昭和31年4月〜7月
    2. 請求記号918/70//W
      菊池武雄著「『注文の多い料理店』出版の頃」筑摩書房版『宮澤賢治全集』月報第7号pp.2-4 昭和31年10月
    3. 請求記号918/349//W
      高橋新吉著「鐘は上野か」筑摩書房版『校本 宮澤賢治全集』第7巻月報pp.3-5 昭和48年5月

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