『伊豆七島全図 附無人島八十嶼図』
『増訂 伊豆七島全図 附無人島八十嶼図/相武房総海岸図』
の成立事情と著者
附・小笠原島の旧名「無人島」は「ムニンシマ」

平野 満1

東條信耕(琴台)の著書とされるもののなかに『増訂伊豆七島全図 附無人島 八十嶼図 / 相武房総海岸図2』(色刷り, 一舗。小冊子 『伊豆七島全図3』と区別するため, 以下『増訂』と略記する場合がある)なる地図が ある。本図は幕府の禁に触れて絶板とされ, 著者の東條琴台は高田藩邸幽閉になった とされているが, 何故か現在もわりあいに多く残っている。

琴台の高田藩邸幽閉について, 坂田諸遠はその編著『小笠原島紀事 4』 で次のように記す。

天保十三年ノ春, 高田ノ藩儒東條信耕伊豆七嶋全図ヲ作ル。其図ニ小笠原島開拓ハ当 今ノ急務ナル事ヲ記載スル。(中略)然レトモ図中ニ記載スル処, 忌諱ニ■(手偏に卒) レシ事アリ ケン, 信耕ヲ厳ク窘メ彫版ハ官ニ没収ス。今, 適世ニ存ルモノハ滅版以前ノ 遣リ也。

ここに引用した『小笠原島紀事』33巻33冊は, 小笠原の再開拓を期して外務省におい て編纂されたもので, 明治7年(1874)3月に成稿している。編纂主任であった坂田諸遠 は文化7年(1810)の生まれで, 『伊豆七島全図』が絶板を命じられたという天保13年 (1842)には33歳で秋月藩士の家督を継いでいる。坂田が絶板事件の当時, この事件に ついて知っていたかどうかは不明だが, 同時代に生きた坂田の記述はそれなりに信頼 できるものとしなければならない。

引用史料で, 坂田は東條信耕自序の年紀から本書の出板を天保13年と推定し, 『伊豆七 島全図』が幕府の忌諱に触れて没収されたとするが, 標題の「増訂」には触れていな い。ここに坂田が言及しているのは増訂される前の『伊豆七島全図』すなわち先述の 小冊子をさすのか, それとも『増訂伊豆七島全図』によりながら, 単に坂田が「増訂」 を略したのだろうか。以下の記事から, 坂田が言及したのは『増訂伊豆七島全図』 のことと考える。

後のことであるが, 大坂で『増訂』の出板が企てられ, 板行不許可になったことが ある。この間の事情は, 大坂本屋仲間の出勤帳の記事5によ れば次のようであった。嘉永6年10月5日大坂の本屋から当地において「伊豆七島之図」 の彫刻ができたとの風聞があるが, 板行を許可しても差支ないかと仲間行司へ内々の 問い合わせがあった。そこで仲間行司は町奉行所所管の本屋仲間担当役人安井九兵衛 様宅へ絵図を差し上げて判断を仰いだ。その結果, 10月14日になって「七島全図」の 売留(発売停止)が命じられ, 15日仲間では売留の惣触を相談し, そのことを売留触帳に 記録するとともに市屋に張り出すための張紙を認めた。この張り紙は実際に張り出さ れたはずである。

     乍憚口上
一増訂伊豆七島全図 付無人島八十嶼図
 武相房総海岸全図
江戸表ニ而出来, 去冬より無何方与送来有之候処, 項目うつせ板ニ致し, 当所ニ而摺立 候様之板行, 彼是売買ニ見当り候, 右者江戸表ニ而も御差留ニ相成候趣粗承知仕候, 尤 当地ニ而, 板行摺立人ハ相知不申候得共, 自然売買如何之筋ニ有之候而は, 奉恐入候義 ニ付, 此段奉申上候処, 被仰上, 右板行之儀, 得与摺立人も相知不申候儀ニ付, 先本屋仲 間売買は御差留被仰付, 且追而摺立人相知候ハゝ, 其節御伺可奉申上旨被 仰渡奉畏候, 以上
  嘉永六丑年十一月
本屋年行司 印
藤屋徳兵衛 印
河内屋喜兵衛 印

 江川庄左衛門殿
 安井九兵衛殿
 薩摩屋仁兵衛殿
 今井喜左衛門殿

『享保以後大阪出版書籍目録』に収載される「絶板書目(売買差留開板不免許) 6」には次の記事がある。

嘉永六丑年十一月 増訂伊豆七島全図
 附 無人島八十嶼図 公儀御法度差障之図面に付, 絶板申渡,
   武相房總海岸図 売買禁止申付
 附記 両図共板行摺立人相知れざるも, 既に江戸表にて差止められた
 るものを「うつし板」として摺立たるものに付, 絶板申渡, 本屋行司
 え摺立人吟味方申付, 売買取扱を禁ず。

『増訂伊豆七島全図 附無人島八十嶼図』については「公儀御法度差障之図面に付, 絶 板申渡, 売買禁止申付」と述べられ, 附記で「両図共板行摺立人相知れざるも, 既に江 戸表にて差止められたるものを「うつし板」として摺立たもの」だから絶板を申し渡 し, 売買取扱を禁じたのである。江戸ですでに「公儀御法度差障之図面」という理由 で差し止められていた本図を「うつし板」(いわゆる被せ彫り)にしたものだからとい う訳で, それ以上の具体的な理由は述べられないが, 嘉永6年以前に江戸で発売禁止に なっていたことは確認できる。

南波松太郎・室賀信夫・海野一隆編『日本の古地図7』の『伊豆七島全図』の解題では 次のように述べ, 『増訂』の板行は嘉永元年(1848)といわれるとし, 本書のほかに「記 事および伊豆諸島・無人島の図を小冊子」(すなわち『伊豆七島全図』−筆者), 本書 の記事を省いた『武相房総海岸図』と題するものがあるという。

伊豆七島の開拓と警備の重要性を説いた図で, 江戸湾岸一帯の地名・台場・干潟・海 上距離などが詳しい。当時沿岸防備に従事していた諸藩の分担区域を, 会津持・ 佐貫持(房総半島), 彦根持・河越持(三浦半島)などとして明らかにしている。このた め信耕は幕府のとがめを受け, 禁錮7力月に及んだ。

この図が実際に刊行を見たのは嘉永元年(1848)のことといわれる。500部限定の非売 品とするもの以外に, 記事および伊豆諸島・無人島の図を小冊子としたもの, 記事を省 いて「武相房総海岸図」と題するものなどがある。

さらに, 小冊子『伊豆七島全図』と『増訂』の関係について, 横浜市立大学図書館 『鮎沢文庫目録8』 の解題では上記の『日本の古地図』解題を参照しながら, 次のように述べる。

『増訂伊豆七島全図』は右図(『伊豆七島全図』)の増補版。「相武房総海岸図」を大 きく詳細に描く。「伊豆七島」「無人島」の地図, 図説は旧版のまま。ただ, 図説で 「小島」「青ケ島」が加えられている。旧版にない長山貫の序に「壬寅」とあるので 同じ天保十三の刊としたが, 実際にこの図が出版されたのは嘉永元年(1848)のことだ という。

『増訂』が発売された際の袋に「嘉永戊申改」あるいは「庚戌歳補入」の朱印が捺さ れるものがある9。これらの朱印は『増訂』が嘉永元戊申年に出板され, 嘉永3庚戌年に改定されたことを示しているのではないか。

また, 袋には「不許売買五百部頒同志」と刷られ, 図面には「謹以内吉/邸報判板/限五 百部/無批印者/係于偽刻」の墨印が捺されるものがある。図面左下には「不許市売」 と刷られ, その脇や袋に熨斗の形をした朱印をもつものがある。これらは本図が売り 物ではなく, 500部限定で同志への頒布品であることを謳って出板統制から免れるため のものと考えられる。かれらも本図を本屋仲間をとおして正式に発売すれば, 規制に かかることは充分に予想していたのである。

東條信耕(琴台)の高田藩邸幽閉について, 『北越詩話10』では『伊豆七島全図』の出板 により嘉永2年藩邸に幽せられたとする。『朝日日本歴史人物事典11』と『国書人名辞典12』は嘉永元年(1848)に著した『伊豆七島図考』によっ て幽閉されたとする。どちらも確かな根拠は示されないが, 琴台の高田藩邸幽閉は 『増訂伊豆七島全図』の出板によることは確かなようである。

幕府の忌諱にふれたのは, 伊豆七島の開拓と警備の重要性を説き, 江戸湾岸一帯の地名・ 台場・干潟・海上距離が書かれていたからであった。また『増訂』には当時沿岸防備 に従事していた諸藩の分担区域まで明記されていた。『伊豆七島全図』『増訂』の記 事中には大略以下のように述べられている。

平賀国倫(源内)や林友直(子平)が「無人島」には有用な産物が多く開拓植民すれば利 潤少なからぬ, と説いたのは既に60年前のことである。その後, 10年前には大蔵永常・ 渡辺定静(崋山)が同様のことを説いた。しかし, この計画は実際には行われずに今日 に至っている。近年, 西洋諸国の船が互市を求めて長崎・津軽・松前・蝦夷に出没す るようになった。このまま「無人島」を放置しておけば, いずれ西洋諸国がこの島が 無人であることを知り, 植民に乗り出すであろう。そうなった時には伊豆七島にどん な害があるや計り知れない。ここに本書を著し, 併せて七島図を附して同志に示す。 要路にある人は「無人島」の開拓を議論に乗せ, 以て警備に備えるべきである。

林子平が上記を説いた『三国通覧図説』は絶板に処せられ, 渡辺崋山は無人島渡海の 嫌疑で処罰された(蛮社の獄)ことは周知の通りである。無人島開拓と西洋諸国への防 備を説いた先駆者として林子平や渡辺崋山の名前を挙げ, 彼らの説の実行を訴えた本 書が幕府の忌諱に触れぬはずはない。こうして本書は絶板になったのである。

ところで, 本書中で林子平の事件を60年前, また渡辺崋山の事件を10年前としている。 本書の序の末尾に記された「壬寅之春」(天保13年(1842)春)から60年前は天明2年 (1782), 10年前ならば天保3年(1832)にあたる。『三国通覧図説』の絶板は寛政4年 (1792), 「蛮社の獄」は天保10年(1839)のことであった。それぞれ10年あるいは7年の ずれが生じている。とくに, この序が書かれた天保13年はまだ蛮社の獄の余韻冷めや らぬ頃であったし, 校訂者に名を連ねる阿部喜任(櫟斎)は蛮社の獄で取り調べを受け, 押し込めを命じられた当事者でもある。『三国通覧図説』の絶板は年数換算の誤りと しても, この事件の年を間違えることはありえない。『伊豆七島全図』が実際に出板 されたのは嘉永元年であったが, 天保13年には成立しており, 出板の機会を待っていた のではないか。蛮社の獄から10年後は嘉永2年(1849年)であるが, 嘉永元年の出板にあ たって, 末尾の年紀は改めず, 蛮社の獄をおよそ10年前, 『三国通覧図説』の絶板を60 年前(実際は56年前)と訂正したのではないか。天保13年の成立から嘉永元年の出板ま で6年を経ており, その間に幕府は諸藩に命じて江戸湾の沿岸防備を分担させた。ます ます沿岸防備が急務となっていたことを受けて, 早速この情報を載せた増訂版を非売 品として作ったのではないか。推定が多く確かな根拠に乏しいが, 私はこのように考 えている。

小冊子『伊豆七島全図』の出板が嘉永元年になったのは以下に見るような蛮社の獄の 影響が考えられる。蛮社の獄で罪を得た門人阿部喜任は「無人島」開拓には大いに熱 心で, のち文久2年(1862)幕府の無人島(小笠原)開拓にあたって医師兼本草調査のため 渡島して活躍している。私は, 本書に書かれる内容は東條琴台より阿部喜任の考えと するほうが相応しいように思う。東條琴台著とされるが, 実際は阿部喜任(櫟斎)が師 を説いて世に訴えたかったように思われてならない。阿部喜任は蛮社の獄で罪を得た ため, 自らの著として公にすることができなかったからではあるまいか。

いわゆる蛮社の獄に際して, 南町奉行筒井伊賀守が阿部櫟斎と花井虎一に尋問したな かに次の記事がある13。 友進は櫟斎, 虎一は花井虎一, 尹は尋問者筒井伊賀守である。

(前略)次に友進に向て日く, 其方蘭学医者なる歟。日く, 左に候。初は某に従学し, 後 に幡崎鼎に従ひ, 漸く通読に止り, 翻訳等出来ず。尤も平生本草は好み居候。尹問て 日く, 去る酉年春, 其方宅にて無人島の咄致たるよし, 如何。日く, 然り。毎月三日の 日拙宅会日なり。尹日く, 所謂物産会歟。日く, 然り。月日は失念したれども, 会集の 節胡椒を植ゆる話ありしゆへ, 私の説には, 日本にては八丈島歟, 又は西に近く琉球な ど風土宜敷からんと述たる時, 虎一は八丈より先き二百里に無人島あり。極寒 ママ(暑の誤?)の地にて, 胡椒に宜しき事疑なしと, 喋々弁論したり。 此時金次郎, 秀三郎 等も居合, 其説を承りたる事相違なし。尹虎一に向て日く, 左に候哉。答て日く, 私実 に話はしたれども, 発言は私にあらず, 他の人なり。友進日く, 右秀三郎, 金次郎の両 人は, 面あたり虎一より聴きたる者なれば, 何よりの証人, 御尋あらば分明ならん。

以下が阿部友之進への判決書14である。

高家          
 今川上総介家来    
 医師         
  阿部友進      
其方儀, 花井虎一・金次郎より物産之儀を談候より無人島話に移り, 開発致し候はゝ御益にも相成, 先祖阿部友之進家名再興之為にも可相成と存, 渡海致し度段, 彼是拙合候 儀有之, 右 は願相済候上之心得に而密々渡海等可致心得には無之候へ共, 金次郎儀 無人島之絵図持参候節, 出所も不取調同人頼に任せ写し遺し, 又は御普請役大塚清右衛門兄大塚庵 金子に差支候間, 所持之鉄炮其外相顆, 金子調達致呉候様申聞, 町人に而 鉄炮質 に取, 又は所持致し 候儀は難成処, 金次郎へ相頼, 金子滞候節は相流し候対談に而 金子借請 遣候段, 不坪に付押込申付る

阿部櫟斎宅の物産会で, 事件の発端となった無人島の話が出たのは「去酉年春」(天保 8年)であった。席上, 胡椒を植える話が出たので, 櫟斎は日本なら八丈島か琉球が向い ていると説いたが, 花井虎一は胡椒を植えるなら八丈より先き二百里にある無人島が 適していると「喋々弁論した」という。無人島の話は棟斎自身が主張したわけではな かったが, 無人島を開発すれば国の利益にもなり, 先祖阿部友之進の本草学者としての 家名再興の為にも成ると, 渡海したいなど彼是話し合ったという。この時の櫟斎は無 人島開拓にかなり積極的であった。また, この時に金次郎が持参した「無人島之絵図」 を, 出所も確かめずに頼まれるまま写してやったという。この「無人島之絵図」は 『伊豆七島全図』にも採用された林子平の『三国通覧図説』の附録として板行された 「無人島之図」だったろう。このように, 阿部櫟斎は天保8年頃から亜熱帯性気候の地 である無人島の開拓に意欲を示しており, 実際に地図をも入手して準備を進めていた と考えられる。それが幕府の摘発によって頓挫したのである。

ちょうどこの頃, 阿部櫟斎には未刊に終わった自筆稿本『草木育種続編15』がある。 本書には天保9年4月の年紀をもつ櫟斎による「例言十五則」, 同年同月の東條琴台の叙 が附される。見返しには「玉山堂発兌」, さらに奥附と発売書肆をも明記, 後半こそ乱 れており未定稿の態だが板行直前の体裁をもつ。初丁右の欄外には朱筆で「癸亥の正 月一日朱にて可被書入候分」とあって, 翌天保10年正月にも手を加え板行にむけて訂 正の作業がなされている。櫟斎が蛮社の獄に連座しなければ, 日をおかず板 行されたはずである。

櫟斎は蛮社の獄に連座し『草木育種続編』の板行を断念させられたにもかかわらず, 無人島開拓についての自説を捨てなかったのではないか。この櫟斎の強い志に師琴台 が賛同して, 自著のかたちで板行を企てたのではなかったろうか。因に, 櫟斎には箕作 省吾の『新製輿地全図』と高橋景保の『新製万国全図』を手本にしたといわれる世界 地図, 天保9年阿部櫟斎誌・栗原信晁再校『嘉永校定東西地球方国全図16』の著もある。 一方, 東條琴台の編著には本書のほかの地図は見当たらない。『伊豆七島全図』『増訂 伊豆七島全図』とも実際の編著者は阿部櫟斎だったのではないか。根拠が薄いけれ ども, あえて推論を述べて諸賢の御批判を乞いたい。


附・小笠原島の旧名「無人島」は「ムニンシマ」

現在の小笠原諸島の名称は, 延宝3(1675)年に発見されてから明治3年に「小笠原」と 改称されるまで, およそ200年近くにわたって「無人島」が正式名称だった。このこと は一般にはあまり知られていない。しかも, この「無人島」をどう読んだのかについ ては, いくつかの説があるが確定できるだけの根拠がなかった。ここに提出する史料 によって, 「無人島」が「ムニンシマ」と読まれたことを確定したい。その史料とは 上述の小冊子『伊豆七島全図 附無人島八十嶼図』である。

問題の箇所は「無人島」についての以下のような書き出し部分である。

無人島ムニンシマ.一名小笠原島ヲカサワラシマ.在八丈島 辰巳方位タツミノカタ一百八十里二.アリ

ここに, 無人島が「ムニンシマ」と呼ばれたことが判明する。ただ1点の史料ではある が, 信頼に足る史料であると考える。すでに述べたように, 本書の校訂に名を連ねる阿 部喜任(櫟斎)は「無人島」開拓に極めて熱心であった。天保8年(1837)櫟斎宅で催 された本草研究会では, 花井虎一から胡椒など暖地性植物の栽培には無人島が適する との説が披露され, 金次郎が持参した「無人島之絵図」を筆写してもいる。この「無 人島之絵図」は『伊豆七島全図』にも採用された林子平の『三国通覧図説』の附録と して板行された「無人島之図」だったと推定できる。もしかすると, ここに問題とし ている『伊豆七島全図』に掲載された「無人島ノ図」はこの時に披露された地図その ものにもとづいた可能性すら考えられよう。さらに, 櫟斎は仲間とともに実際に無人 島の開拓に乗り出す計画を立てていた。この計画が発覚したことによって, 櫟斎は 「蛮社の獄」で押し込めの処罰を受けた。こうした事実から, 阿部櫟斎が無人島につ いて豊富な知識情報をもっていたことはまちがいない。無人島の地誌や「ムニンシマ」 の振り仮名も櫟斎の知識によるものであった可能性が高い。以上の事情を考慮して, 私は「ムニンシマ」の読みを信頼できるものと判断する。余談になるが, 櫟斎はこの 後も無人島開拓の夢をもち続け, 文久2年の幕府による無人島(小笠原)開拓にあたって 医師兼本草調査要員と して採用されて小笠原へ渡島して活躍する17

『伊豆七島全図』で無人島を一名小笠原島とするのは, 近世初頭この島を小笠原貞頼 なる者が家康から領地として拝領したという偽説があり, この島が小笠原島と呼び慣 わされてきたからである。明治になって, 一般名詞と紛らわしい「無人島」を廃して, 根拠は暖味であったけれども他に相応しい名称も考えつかず, ロ碑として伝えられて いた小笠原島を正式名称として採用したかと推定する。


追記. 成稿後, 柴田(新発田)収蔵『各国所領万国地名提覧』(嘉永6年10月序刊)に, 「無人島ムニンジマ(即小笠原島オカサワラシマ)」としている 例を得た。「ムニンジマ」と「ジ」が濁音で表記され ている。濁音も清音に表記されることが多かったことを考慮すれば, 「ムニンジマ」 と読むのが正しいのかもしれない。



蘆田文庫編纂委員会
2007-06-04