『北搓聞略』附図の第1「地球全図」(以下,内閣図と略称)に関連して,蘆田文庫中の「地球両半球図」について再び言っておくことがある。前者の原図はおそらくロシア側から日本へ公式に贈られたもののひとつであり,1781年銅版図と推定される説は上述した。そして1に似たような「地球全図」の写図が複数知られている。その1は内閣文庫所蔵の旧桂川家軸装「世界図」[23](以下,桂川図)である。本図は内閣図と同図とみられる(元来内閣図のひかえの図か)。その2は日本学士院所蔵の「万国地図(世界地図)」[24](以下,学士院図)であり,その3は高樹文庫所蔵「地球ノ図」(以下,高樹図),その4は松井喜代枝氏所蔵「地球図」[25](以下,松井図)である。これら3図は,船越昭生氏と海野一隆氏によれば,同源の図という(筆者,高樹図および松井図は未見)。さらに船越氏に従えば,高樹図は1770年後半に,内閣図は1780年代後半にそれぞれ原図が作成されたと推定している[26](内閣図は1781年説あり。上述)。
ここで筆者はささいなことに言及したい。内閣図・学士院図・高樹図・松下図はいずれも中央上部に円形の寓意図を有している。これらは原図からの写しにちがいない。この寓意図は互いにあい似ていて,左側に坐った女性を4人の子供がとり囲み,右手に地球儀を配する。だが見るべきは中央上の日輪中に輝く●のマークである。これはエカテリーナ�鏡い離沺璽�であり,彼女の治政下にあることを示す。その治政は1762年より1796年であるから,これらの図はいずれも1796年を下限として刊行されたといえよう。きわめてゆるい限定のめやすであるが言及しておきたい[27]。
さて蘆田文庫中の「地球両半球図」(ひいては神戸市博物館所蔵秋岡旧蔵「地球図」[28]。以下秋岡図)もこうした地球図類に入るであろうが,もとより表題は有するものの寓意図はない。しかし秋岡図の次のような題簽に書かれた所伝を信じるのであれば,やはり光太夫帰還時に日本へ齎らされた図とみられるであろう。
地球図 伊勢幸太夫自魯西亜持来之物[双行]
だが,以前述べたように,蘆田図(=秋岡図)は日本北辺部分が,他の地球図の2種に分けうる形状ともことなるまた別の,いわば第3の形状を呈しているのである。この点につき,秋月俊幸氏は,1745年のロシア・アカデミー地図帳以来,フリースの〈エゾ地〉の存在を否定してサハリン島南方に大きな空白の海域を作っていた伝統的なロシア地図の中に,1734年のダンヴィル図が1770年代にヨーロッパで復活した折に,これを導入した図とみている。これがロシアが西欧の図を受け入れ始めた過渡期の産物として,興味ぶかいと評している[29]。筆者ものこの説に従いたい。なおこの図の刊年は決定できないが,内閣図・桂川図と比較する時,上記日本北辺部分からオホーツク海南部がことなるのみで(写真1,2,3参照),他はほぼ一致し,クックの航跡も示されており,ほぼ同時期の刊行かと推量される。
「地球図」はエカテリーナ�鏡ぜ2爾離蹈轡△砲�いて少なくとも3種作製され,少なくともそのうち2種の原図がラクスマン来航時に日本にもたらされた。そのひとつが『北搓聞略』附図の「地球全図」の原図であり,他のひとつが蘆田図(=秋岡図)の原図であったと考えられるのである。この原図が幕府への贈物中の一枚であったか,あるいは光太夫の私物であったかはわからない。ただし,光太夫は種々の地図を有していたらしく,たとえば晩年手許にあった外国製日本図や地球図半面を伴信友に示したりもしているのである[30]。
写真1 近藤重蔵『辺要分界図考』中の〈第三 魯西亜人アダム所齎図〉
写真2 同左〈第四 魯西亜人アダム所齎図〉
*写真 1 ・ 2 は『近藤正斎全集』(国書刊行会,明治38年)中の図より転載。
写真3 蘆田文庫「地球両半球図」(01-1) 部分。日本北辺およびオホーツク海中の
2 島の形状・位置につき,写真2, 3 と比較せよ。写真1
は『北搓聞略』附図 3・6 さらに学士院図・高樹図・松井図につらなり,写真
2 は附図の1・7・8の第1 に,さらに桂川図につらなるものである。