次ページへ前ページへ論文目次へ蘆田ホームへ

2 「雁道」の地名表現の変遷

 北方の架空の土地として,金沢文庫蔵日本図に描かれた「雁道」という名称は,その後形を替えながらも,18世紀中頃まで生きのびて日本の北方にある大陸,半島,小島として描かれつづけた。18世紀中頃まで雁道は,そのかな表記の「かりのみち」が寛永元年(1624) に現れ,さらに17世紀中頃に訓みが変化したと思われる「かんだう」が出現する。

 これに代わって17世紀後半に登場するのが「韓唐」である。この「韓唐」は石川流宣の「本朝図鑑綱目」や「日本海山潮陸図」に登場する。浮世絵師石川流宣の図は流宣図とも総称され,それまでの行基図系の日本図に代わり,以後 1 世紀の間華麗な日本図として重版をつづけた。この「韓唐」という表現は,「韓唐と大陸の関係について明示を避けているようにさえ思える。…(略)…世界図を作成しうるほどの流宣に,東アジアの地理的知識がまったくなかったとは考えにくい」[9],つまり「韓唐という表現は(流宣にとって),こうした現実と伝説との妥協点ではなかっただろうか。」[9]

 そして,「韓唐」は「かんとう」,「かんたう」と訓みを変化させ,流宣以外の地図にも登場するが,日本で刊行された地図としては,長久保赤水の登場によって日本図から消えていく。長久保赤水の地図は,流宣図と比べはるかに正確で,緯線・方角線を記載した近代的なものであった。
 しかし朝鮮,中国に渡った行基図が,14世紀から江戸後期に至るまで,「雁道」をその多くは日本に隣接する島として描きつづけられたことは興味深い。

次ページへ前ページへ論文目次へ蘆田ホームへ