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吉田用水の基本年表

  〈注 M=明治,T=大正,S=昭和,H=平成,の各時代をあらわしている〉

1722 (享保 7)  幕府,新田開発を奨励。(「利根川基本年表」[1] 以後,引用略)
1723 (享保 8)  山川沼・北沼・菅谷溜井・八町沼・太田沼・若沼・木間木沼・国生沼の干拓を決定
 (享保10年までに成る)(鬼怒川)(『八千代町史』)
1724 (享保 9)  飯沼新田開発許可(享保12年検地)(鬼怒川)
1725 (享保10)  吉田用水を開く(鬼怒川)(『吉田用水土地改良区沿革』)
1725 (享保10)  吉田用水,飯沼干拓にともない創設(『アーバンクボタ NO 19』)
1726 (享保11)  江連用水を開く(のち水乗り悪くなり廃さる)(鬼怒川『江連用水再興始』)
 享保年間 砂沼干拓(江連用水を引く)(『下妻市史』)
享保年間  大宝沼干拓(江連用水を引く)(『下妻市史』)
享保年間  江村沼干拓(江連用水を引く)(『下妻市史』)
1737 (元文 2)  東仁連川を開く(飯沼)
1739 (元文 4)  豊田谷原妙見沼新田開発願(結城郡石下町本豊田篠崎家文書)
宝暦年間  幕府治水調査。
1783 (天明 3)  浅間山大噴火。
1793 (寛政 5)  葛飾郡中島村島上和平「治河言上案文」を幕府に提出(猿島郡五霞町元栗橋松本家文書)
寛政年間  四ケ村用水(中居指・本宗道・原・三坂)水乗り悪くなり潅田不能
 (以後江連用水旧溝に掘継ぎ再興を企図)(鬼怒川)(『江連用水再興始末』)
1829 (文政12)  江連用水再興(中居指・本宗道用水を改修して江連用水とす)(鬼怒川)(『江連用水再興始末』)
1838 (天保 9)  原・三坂用水を加え,江連用水組合を結成(鬼怒川)
1830-1843
(天保年間)
 浅間山噴火による利根川の河床上昇は,もちろんまず吾妻川上流部にはじまりしだいに下流におよび,吾妻川上流から約150キロ下流の栗橋付近において河床上昇がはげしくなったのは,天明の噴火から60年へた天保年間のことである。(高橋裕『利根川物語』筑摩書房 1983S58 11)
1842 (天保13)  「御請証文」猿島郡五霞町元栗橋松本文書 K24
この文書は,天明 3 年の浅間山の大噴火がおこり,その59年後に書かれたものである。五霞周辺を流れる川の河床が上昇したが,幕府の御定式普請も施行されない状況を知らせてくれる。(『五霞町の歴史資料 4 五霞の古文書』1999H11 3)
1874 (M7)  菅生沼干拓(大部分耕地化)(中利根)B 本間。〈茨城県自然博物館〉
1874 (M7) 2.15  「鬼怒川通吉田用水其外官自普請仕来書」(皆葉松田茂 NO 2,『飯沼新発記』)
1880 (M13)  水利土功会が組織され所轄郡長が管理者になった(「吉田用水土地改良区の概要」八千代町若 吉田用水土地改良区所蔵=「吉田用水概要」と略称)
1884 (M17)2.25  「嘆願書(用水費賦課につき)」(五箇 小竹勝男家文書)
1889 (M22) 9  「鬼怒川の河身を改修す」(『江連用水誌』)
1890 (M23) 4  「(吉田用水路土工費につき)」(五箇 小竹勝男家文書)
1890 (M23)  利根運河成る(中利根-江戸川)この運河に『土』の勘次出稼ぎに行く。
1891 (M24)  田中正造,足尾鉱毒問題の質問書を初めて議会に提出(渡良瀬)
1896 (M29)7.21  「田方逆水防費支払明細帳」(鎌庭 人見助雄家文書 追加 NO 11綴)
1896 (M29) 8.1  「人夫日記簿」(鎌庭 人見助雄家文書 冊 NO 20)
 「圦樋開き 水門下堀浚い大字新地吉田分水締切り人夫 5 名」
1896 (M29) 8  「絹川堤塘水防費支払明細簿」(鎌庭 人見助雄家文書 NO 21)
1896 (M29)9. 8  「治水費入明細口取簿」(鎌庭 人見助雄家文書 NO 22)
1899 (M32)  耕地整理法公布(明治42年大改正。)
1900 (M33)  北清事変(「総説」)[2]
1904-1905
(M37-M38)
 日露戦争
1905 (M38)8.25  清宮秀堅『下総国舊事考』「飯沼」吉田用水の由来を記述。
1906 (M39)  豊田谷原耕地整理施行認可(昭和初年に至る)(「石下町外六ケ村耕地整理組合事業報告」)
1908 (M41)  水利組合法の改正により普通水利組合となる(「吉田用水概要」)
1909 (M42)  内務省,地方改良事業講習会を開催。以後,地方改良運動を推進(「総説」)
1909 (M42)5.1  「用水浚人夫扣」(村岡 中里明信家文書 NO 52)
1909 (M42)5.21  「大字村岡定式浚人夫控帳」(村岡 中里明信家文書 NO 53)
1910 (M42)  大洪水(中利根)。
1914-1918
(T3-T7)
 第 1 次世界大戦(「総説」)
1918-1922
(T7-T11)
 シベリア出兵(「総説」)
1918 (T7)  鬼怒川流域砂防工事起工
1918 (T7) 10  「吉田用水普通水利組合規約 全62条」(皆葉 松田和男家文書 NO 15)
1921 (T10)  郡制廃止法公布(大正12年施行。「総説」)
1926 (T15)  鬼怒川改修工事起工
1926 (T15)  郡制廃止により管理者は民間移ったが,管理者には最下流の大花羽村長(水海道市)が任命され,以来管理者は大花羽村長に限定されていた。事務所も江連用並に十四ケ用水,上山川圦樋普通水利組合等と共に郡役内(現千代川村本宗道)にあったが,昭和 9 年(1934) 現在地(下館市)が当吉田用水の中心部であることから移転する。戦後,農地改革に伴い組合員は土地所有者から耕作者に変更された(「吉田用水概要」)
1931 (S6)  満州事変(「総説」)
1931 (S6)  利根川改修全工事竣功
1932 (S7)  農林省を中心として農村漁村経済更正運動を推進(世界的な大恐慌による打撃の克服をめざす)*この前年から戦争時代に突入(いわゆる「15年戦争」「総説」)
1933 (S8)  小貝川,烏川改修工事起工
1937 (S12-)  日中戦争(「支那事変」「総説」)
1941-1945
(S16-S20)
 太平洋戦争(「大東亞戦争」「総説」)
1943 (S18) 7  栗原良輔『利根川治水史』(官界公論社)吉田用水(158-159頁)
1945 (S20)8.15  太平洋戦争(当時の日本側の公称は大東亞戦争)の敗北・日本の近代は戦争を抜いては語れない。そしてついに昭和20年 8 月15日の降伏に帰結したのである。ここでは国民国家の形成,発展,膨張と右のような連続する戦争とが不可分の関係にあったことを指摘するに止める。(「総説」)
1946 (S21)  農地改革(昭和21年以後数年「総説」)
1947 (S22) 5  日本国憲法 5 月施行(「総説」)
1947S22 キャスリン台風による大水害(中利根,中川)
1949 (S24)  土地改良法の改正に伴って吉田用水普通水利組合が,吉田用水土地改良区に組織変更し茨第39号を以って認され現在に至っている。上山川圦樋普通水利組合,十四ケ用水普通水利組合は,当吉田用水の支流組合であるため,この組織変更の手続きを取らず現在は任意の組合になっている(「吉田用水概要」)
1951 (S26)  サンフランシスコ講和条約 9 月調印(「総説」)
1953 (S28)  町村合併促進法公布,当時 1 万近くあった町村が,三年後には4000未満に急減した。以後漸減,現千代川村の成立は(1955昭和30年 1 月)この時期である。(「総説」)
1954 (S29) 10  玉村の北部に位置する羽子・原の両大字が宗道村に編入された。これらは宗道村に南接し,かねてから関係が深かった。(「総説」)
1955 (S30)  戦前平和時の生活水準にもどったのは昭和30年前後だったらしい。(「総説」)
1955 (S30)  千代川村の創立 千代川村現代のスタート。敗戦から創立に至るの10年間を,近代と現代の過渡期,それ以前を近代とする。昭和30年 1 月 1 日,宗道村・大形村・蚕飼村の三村が合併し「千代川村」が成立した。(「総説」)
1960 (S35)  年末,政府(首相池田勇人)は国民所得倍増計画を発表した。これは経済の高度成長を国の基本政策とするという意思表明だった。この時期,人々の勤勉と知恵によって,この政策を可能にする条件が既に作り上げられていたのである。(「総説」)
1962 (S37) 3  原,西畑地区土地改良事業竣工(「総説」)
1963 (S38)  「千代川村商工業別明細地図」(鎌庭 浅野一雄家文書 NO 623) 吉田用水・江連用水・八間堀,記入されている。
1963 (S38)  圃場整備事業(この用語は昭和38年頃から使用されたらしい)の進展。これは農業の生産性と労働効率を高めるために,耕地一筆ごとの交換分合,拡大化,整然化,用排水の統合,農耕用道路の新設等を計ったもので,戦前の耕地整理より徹底性が強く,そのため多くの農村景観は一変した。(「総説」)
1964 (S39)  「吉田用水土地改良区沿革」(八千代町若 吉田用水土地改良区所蔵)
第 1 地域及地積
第 2 地域現況
 1. 地形     2. 五ケ年平均降雨量
 3. 水利状況  4. 組合員数        5. 総代定数
 6. 役員 吉田用水の沿革 起請文の事 享保 9 年12月25日
第 3 施設及事業の概要
 1. かんがい 排水施設   2. 事業計画の概要
取入口改修 自然用水と集水暗渠 
中流部へ貯水池の設置
下流大花羽地区へ揚水機場の設置
(1) 中流部県営農業水利事業 幹線水路改修(護岸堤塘工事)昭和15年度-18年度
(2) 大花羽揚水機場 農地造成事業 昭和16年度-17年度
(3) 県営豊岡外五ケ村農業水利事業 計画の概要
事業開始:昭和25年度  完了:昭和27年度
(4) 前田深井戸揚水機 昭和33年 大旱魃
(5) 太田揚水機
事業開始:昭和37年12月26日  完了:昭和38年 3 月30日
(6) 災害復旧事業 昭和27年-37年
(7) 維持管理事業 昭和27年-40年
(8) 賦課方法及反当賦課金 平等割年一回徴収
1965 (S40) 3  田下,中浜地区土地改良事業竣工(4 ha)(「総説」)
1966 (S41) 3  下栗,川原・十二天地区土地改良事業竣工(7 ha)(「総説」)
1967 (S42) 3  鎌庭地区土地改良事業竣工(70 ha)(「総説」)
1968 (S43) 3  砂子地区・鯨地区・原,東部地区・別府地区土地改良事業竣工(計91 ha)(「総説」)
1969 (S44) 3  村岡,中道地区・村岡,岡本地区・皆葉,大橋地区土地改良事業竣工(計26 ha)(「総説」)
1969 (S44) 12  下妻,千代川地区県営圃塲整備事業開始。(「総説」)
1974 (S49) 3  下妻,千代川地区県営圃塲整備事業竣工(571 ha)。(「総説」)
1979 (S54) 3  皆葉,荒神地区土地改良事業竣工(15 ha)。篠ケ崎土地改良事業竣工(15 ha)(「総説」)
1985 (S60) 3  山下,諏訪内地区土地改良事業竣工(5 ha)。
 このように,事業は千代川村のほぼ全域にわたり,これにより耕地景観は一変した。(「総説」)

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