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1.江戸時代の資料から

『小解』の成立は,自序の「天明壬寅正月壬子」によって,天明2年(1782)であることが分かる。門下の大槻玄沢は, その前年に起草して同3年(1783)に成稿,同8年に刊行した『蘭学階梯』[1]上巻の「立成」の章で,蘭化の学績を評価し, 和蘭学の筌蹄をなすべき書として,『和蘭訳文略』『蘭訳筌』などと並べて『輿地図編』の名を掲げている。

蘭化研究の第一人者である岩崎克己は,昭和13年(1938)に出版した『前野蘭化』[2]で『小解』を解説し,「右書の名が 『輿地図編』として『蘭学階梯』に見えている」と書いている。岩崎は,『小解』と『輿地図編』が同一書であることを 自明のことのように表現しているが,根拠は示していない。しかし,岩崎の判断に従うならば,『蘭学階梯』は『小解』に 触れた最も古い文献ということになる。

江戸時代の文献で,この他に『輿地図編』の名が見られるのは,文政12年(1829)の青柳文蔵著『続諸家人物誌』[3], 安政元年(1854)の穂亭主人輯『西洋学家訳述目録』[4],編者・出版者共に不詳ながら江戸末期から明治初期にかけての 編さん物と思われる『本朝医家著述目録下』[5]である。このように目録類に名を留める一方で,文化元年(1804)の 野崎謙蔵撰「蘭化先生碑」[6]や,蘭化晩年の門弟江馬蘭斎の長女細香が天保9年(1838)から文久元年(1861)年頃に 執筆したと推定(岩崎著『前野蘭化』) される「蘭化先生伝」[7]には出てこない。

『国書総目録』[8]は,『本朝医家著述目録』を出典に,『輿地図編』を登載し,分類を「地図」としているが, 所蔵先の記述はない。蘆田本を含む『小解』名の登載もない。

『続諸家人物誌』以下の目録類の典拠は,『蘭学階梯』の記載にあるものと思われる。『輿地図編』は,刊本,写本 いずれにおいても全く存在が知られず,従ってこれを『小解』のこととするのは頷けないではないが,確証はない。