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2.近代の研究から

早いものには,大正4年1O月に新村出が「史学雑誌」に発表した「天明時代の海外思想 第1回」がある。新村は,天明時代に蘭書に基づいて地理を説いた新著に,『蘭学階梯』に見える『輿地図編』 その他があるが,その存否すら知らないと書いている。

次に『小解』に注目したのは鮎沢信大郎である。昭和12年(1937)に「日大三中研究年報」に発表した 「桂川国瑞の外国地理研究」[10]で,『蘭学階梯』と新村の『続南蛮広記』から『輿地図編』に関わる記述を紹介し, 稀覯の書であるとした上で,蘆田本から凡例と附記の全文を掲載している。しかし,『小解』と『輿地図編』との関係, 及び自筆の問題には触れていない。

翌13年に出版された岩崎の『前野蘭化』は, A5判700ページを越える畢生の大著であり,現在までこれを 凌ぐものはない。本書にも,蘆田本から凡例,附記の全文と,本分の抜萃が掲載されているが,自筆の当否には言及して いない。ただ,原本は未見としつつも,米国議会図書館の地図帖目録[11]の記述から,米国議会本と内容にずれが あることを指摘し,異版の存在を示唆していることは興味深い。

蘆田本を蘭化の自筆と位置付けたのは,管見する限り,岩崎が昭和15年(1940) 12月の「歴史地理」に発表した「「輿地図編」とその原書」[12]が最初である。岩崎は,前著刊行後に原本を 閲覧したとし,蘆田本との比較解題を行い,次のように記している。

「拙文成稿の後,蘆田先生から,右の「輿地圖編小解」は往年前田侯爵家から出たのを,先生が書肆を經て 購入せられたものである由を承った。仍って思ふに,本書は前野良澤の自筆にかゝり,且つサンソン地圖帖の解説書 としてその原著に添へて朽木候から前田候に贈られたものではなからうか」

そもそも旧蔵者の蘆田ほどのように考えていたのであろうか。鮎沢も前出の論考に際しては蘆田の閲を 得ていると書いているが,蘆田自身の見解は見当たらない。

最も実証的な報告としては,園部昌良が蘆田本と原本付箋との筆跡,及び記録内容を比較調査して,昭和42 (1966)年に自費出版した『蘭学資料としての「ATLAS NOUVEAV」と「輿地図編小解」[13]』がある。 園部は,蘆田本と原本付箋の筆跡の比較写真を例示して,蘆田本の筆跡は全頁を通じて同一人物であり, 蘆田本と原本付箋とは同一人の筆跡であるとし,蘆田本と原本付箋の記録内容は「各地区地図説明の表題など, 番号と地名いずれも符合し相違するところがない」と断じた。ただし,筆跡については,結論の項でやや曖昧に, 「いずれもが本人の自署と思えるが,その根拠の立証は次の機会に譲るとしても,即ち仮にその両者が誰かに 書かせたにもせよ前者はテイッチングが朽木左門に贈り,後者は前野良沢が訳したものには相違あるまいと 判断される」と記している。園部は同じ年の蘭学資料研究会においても,ほぼ同じ内容の研究報告[14,15]を 行っている。

昭和57年に「日本学報」発表された高橋正の「前野蘭化『輿地図編小解』についてーサンソンと 日本の関わり-その一」[16]は,蘆田本と原本を精密に校合した論考である。自筆の問題について高橋は, 自身の見解は示していないが,岩崎が蘆田から聞いた前掲の話や,蘆田本と原本付箋の筆跡を同一とする園部の判断を 紹介している。

蘆田本を蘭化の自筆と明解に記しているのは,昭和59年(1984)刊行の『洋学史事典』に登載された 「輿地図編小解」[17]の項で,海野一隆氏の執筆になるものである。海野氏は,原本の「各図葉の裏面には 付箋があり,図の通し番号と題名が翻訳されているが,その筆蹟は『輿地図編小解』と全く同じである。」 としている。

同年刊行の『国史大辞典』の「朽木昌綱」[18]の項において,芦田完氏は,「ティツィングより昌綱に 贈った地図(Atlas Nouveau)」が石川県図書館にあり,「前野良沢によるその和訳解説書『輿地図編小解』」が 明治大学図書館に所蔵されていると記している。

以上見てきたように,現在,蘆田本は筆跡や伝来関係から,蘭化の自筆本との評価に落ち着いている。

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