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6. 津田右仲と松原右仲

高山彦九郎の江戸日記には,松原右仲なる人物が赤水の名前とともに度々みえている。私のなかでは津田右仲と大槻玄沢の門人松原右仲とがどうしても重なってしまう。以下に,津田右仲と松原右仲とは同一人物ではないかという仮説を提出して読者の判断を仰ぎたい。

松原右仲の経歴の詳細は不明だが,岡村千曳 [15] 氏により次の経歴が知られる。寛政10年玄沢の塾で開催されたいわゆる阿蘭陀正月の余興に作られたという「蘭学者相撲見立番附」に東方前頭 6 枚目に「備中 松原右仲」とその名が見える。ごく初期の銅版画作者としても知られ,銅版画による『万国輿地全図』(早稲田大学図書館蔵)を作成している。松平定信『退閑雑記』巻二には「備中松山の藩中に近頃銅版を製するものあり,殊に細密蛮製に違はず」という。銅版画を製作した関係から右仲は西方前頭 6 枚目の司馬江漢と対している。右仲は松山藩儒で水戸の立原翠軒や長久保赤水と交り,前野良沢の家にも出入し良沢から蘭学を学んだと推定される。また,自ら琴を製し,オーレリイ(太陽系儀)をも製作したらしいという。

ここに,赤水とともに松原右仲の名がみえる高山彦九郎の日記を引用する [16] (下線は筆者)。

(寛政元年十月)
二十四日,\松原右仲来る,夜簗氏へ至りて寅の刻に及ぶ,\
二十五日,\木挽町板倉周防守殿儒臣松原右仲へ羽生氏と共に至る酒肴出ツ,聖像自画七絃の琴自作なるに唐画文昌帝君の像を見せたり,孔像を乞ふ事あり,予か江戸に居る事を進め侍りし,\前野氏へ帰へりて宿す酒出ヅ\
二十八日,\去て板倉周防守殿儒臣松原右仲所へ寄りて羽生上州へ行きし事を告げ\
(寛政元年十一月)
三日,曇る,朝羽生氏へ行く帰へりて前野に寝ぬ,松原右仲来りしに目覚めたり,
十六日,\竹川町に於て朝辰に逢ふ,予が居の故に松原右仲中橋辺に至り尋ねしよし,朝辰簗氏への書を託す\
(寛政元年十二月)
二十三日,\前野に帰へりて醒めて後松原右仲を弔す,当月八日其父歿せり,\
二十五日,\出でゝ羽生朝辰へ寄りて昨日長久保津嶋へ松原が喪を知らせたる事を語り,出でゝ竹川町伊藤良助所へ入り\
二十九日,\羽生氏へ寄る,松原の故に赤水へ書を添へ侍る,則羽生氏持参羽生生と共に塚本氏家へ入る,

上記の日記にはこのほかにもたびたび赤水の名がみえる。松原右仲が赤水と親しかった立原甚五郎に宛てた書簡も残る [17]。松原右仲は赤水及びその周辺の人たちと交わり深い人物だったのである。

赤水と親しく,『万国輿地全図』を作製した松原右仲は寛政の始めには備中松山藩儒(板倉周防守殿儒臣)であったが,後に水戸藩の津田氏に養子に入って改姓したのではあるまいか。あるいは所属藩は備中松山藩であったが,水戸屋敷に頻繁に出入りしていたことから水戸藩士と誤られた可能性はないだろうか。両者ともその経歴が判然としないのは,こうしたことがあったからではないか。全くの推量にすぎないけれども,私は両者が同一人物であると考える説を捨て切れないでいる。

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