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『北搓聞略』の附図

 北搓聞略』の附図は次の10種である。

  1. 地球全図
  2. 欧羅巴全図
  3. 亜細亜全図
  4. 亜弗利加全図
  5. 亜墨利加全図
  6. 亜細亜亜墨利加対峙図
  7. 魯西亜国彊界全図
  8. 魯西亜国彊界分図(計8枚)
  9. 魯西亜国都城図
  10. 皇朝輿地全図

これらはいずれも訳図であり,またその原図は伝存せず,しかも訳図において刊年・刊行地を慎重にとり除いてあって,原図の刊年・刊行地等の書誌的情報が欠落している。上述のようにこの10種の地図は,幕府が受領したものと光太夫が個人として持ち帰ったものとをあわせて,原図として用いられているわけである。この点を考慮しなければならない。海野一隆氏は,少なくとも 1〜5 をロシア政府の贈り物とみている。そしてこれは5枚1組であり,1791年銅版図が原図であると推定する[15]。また船越昭生氏は1を内容の吟味により1780年代末のものとみている[16]。また6の原図を船越氏は1774年と推定している。さらに7の原図を1876年刊「ロシア帝国新地図」とし,8をその分図とみて1876年原図と推定している[17]

 筆者は 1〜5 を1セット,7・8を別の1セットとえ,さらに6を独立したものとして,これら8種がロシア政府による日本政府への贈物と考える。9 と10は光太夫の私物だったのではなかろうか。だが,最終的には10種すべてが官庫へと召しあげられてしまうのである。

 1792年末から1793年初めにおいてラクスマンのネムロ滞在時に,松前藩の鈴木熊蔵・加藤肩吾および幕吏の田辺安蔵・田草川伝次郎が見てかつ写したのは 1〜5 の原図ではなかったか。そして1794年4月オランダ商館長に示された地図の第1は,上記7・8の原図と考えることができる。〈これらはすべて1787年にペテルブルクで印刷された〉とあることから,船越氏が8の原図1787年と推定することに,強力な根拠を与えることになり,確定とみてよい。ただ商館長がこれらの地図を D'Aprfs de Mannevillette[18]の図と似ているとするのは,少々気がかりである。趣きが違うのではないか。あるいは記憶に錯誤があるのだろうか。

 商館長が提示された第2の図は日本図であった。これは7・8の原図に日本図のみを示すものはないから,あるいは10の原図だった可能性がある。ただしこの図自体は内容的には古いものであって,けっして最近版ではない。ただカルトラーシュの中に〈1786年製作〉とあるから,あるいはこれに惑わされたのかもしれない[19]。他の図はすべて1787年ペテルブルク刊とあることも,間違いの誘因のひとつであったろうか。

 さて,商館長に地図を示した〈第一の地理学者〉とはいったい誰であろうか。松前に行きロシア人から地図を得た人物かつ地理学者という条件から,第1の候補者は田辺安蔵があげられる。ただし田辺を地理学者としてよいかどうか迷うところではある。第2の候補者として最上徳内をあげたい。徳内は寛政4年(1792) 初春からカラフト等の見分を命ぜら松前にあった。翌寛政5年(1793) 正月に江戸に戻っていること,さらにラクスマン来航も承知していたようで[20],公的記録にはみえないが,田辺安蔵とも接触しているようである。なぜならば田辺の『魯西亜語類』をただちに筆写しているとみられるからである[21]。そして又,元来田辺と徳内とは蝦夷地についてはともに見分してまわったいわば同僚であり,専門家であった[22]。地理学者という点から,商館長のいう落ちついた人物とは,徳内とみる方に,筆者はかたむきがちであるが,直接裏付ける史料が今のところない。大槻らが蘭人一行と会見した折,最上も天文方の人々の中にあったのであろうか。

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