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ロシア地図の授受

 地図の授受は,公式には『北槎聞略』第一巻凡例で甫周が次のように述べるように,幕府への贈り物としてロシア側から日本側へと行なわれた。[10]

一凡地理を弁じいふことは…[中略]よって石川忠房,村上義礼等が上るところ,漂人等が齎し来りたる輿地図若干を模写し,…[下略]

『北槎聞略』附図はロシア側から受けとった地図と光太夫らが持ち帰った地図を原図としていることがこれで了解される。しかし,公式にはそうであったが,実際はそれ以前に,まず松前藩士らが,ついで幕府吏員がラクスマンと接触して,地図を見,また貸り出しているのである。ラクスマンらがいまだネムロにあった時のことであった。ラクスマンらは陸上に移転していた。『ラクスマン日記』露暦1792年12月14日の条に次のようにある[11]

12月24日,松前より高級藩吏鈴木熊蔵,医師加藤肩吾,ムンヅケ(不明)来着す。25日,昨日来着の藩吏及び医師相携へて余等の宿舎を訪れて書状を読み聞せたるが,其文意は次の如し,
貴下より御送付の書状正に落手致し侯。貴書は之に当藩の報告書を相添へて首府(江戸)に送り届け申候。本官は右の旨を貴下に通告致し且つ土人の為に危害を蒙らざるやう警戒の任に当り,貴下御一行の御用を承る為に此地に出張仰せ付けられ候。
藩吏は日本の習慣の従つて余等に辞儀して一行の人員及び氏名を質問しつゝ二三の露西亜語を書止む。藩吏が手帳より折紙を取出したるを見るに其折紙は東西両半球の地図にして紙上の四大洲即ち亜細亜,欧羅巴,亜弗利加,亜米利加の図を指し示す。之を一見するに其地図は頗る古き出版物にして且つ幾度も模写したるものなれば最近出版のものとは大に相違せる点少からず。余は新版の地球儀及び世界地図を出して藩吏に示したるに,彼は之を見て自己の地図を手帳に納めたり。藩吏は多大の興味を以て余の地図に見入りたる様子なれば,余は地図に就きて各国の境界,面積を説明し尚ほ地理書を出して各国の紋章をも見せたり。藩吏は余の説明を聞きて非常に喜びたるが辞するに望み,余等に向ひ余等も彼等と倶に越年し互に往来し交際せんことを乞ふ。26日双方の同意に依り交際のしるしとして総督よりの土産物羅紗若干尺,サフィール(紅宝石)2個其他を藩吏に贈らんと欲し通訳官をして土産物を持参せしむ。然るに藩吏は之を謝絶し日本の国法及び習慣に依れば,余等の渡来を藩主より国主に報告し,而して国王より余等の長官が命じたる所(江戸に赴きて漂民を交附すべしとの総督の訓令)へ航行を続けて宜しとの允許あるまでは土産物を受取ること能はずと告げたるを以て土産物は其儘持帰る。尚ほ藩吏は熊蔵(原註,日本にては互に呼ぶに唯名のみを以てす,姓は文書に限り之を書す)が若し宜しくば余等の地球儀及び地理書を写し度き為め暫時の間借用せんこと希望し居る由を話したるに付き地球儀を貸し与ふ。翌日熊蔵を訪問したるに彼は地図の上に薄様紙を拡げ毛筆にて聊かの間違ひすらなく巧みに写し居たり。其薄様紙は其下の細字までも其上より明瞭に透視し得る程薄き透明の紙なり。熊蔵は蝦夷及び之に接せるカラプ(Karap 樺太ならん)と称する島の地図を所持し居たれば余は之を借り受けて写し取り,医師肩吾氏に依頼して地図に日本語を記入して船長ロフツオフに与へ以て航海上の最良の参考として保存せしむ。カラプは蝦夷の北西及び南西に位ゐする島なり。

松前藩の鈴木熊蔵と医師加藤肩吾がいちはやくネムロに赴き,ラクスマンの地図を見,借りて写したことがよくわかる[12]。加藤肩吾はこの頃「松前地図」を刊行しており,さらにラクスマンらとの交流後,ロシア事情を『魯西亜実記』[13]としてまとめてもいるのである。

 さてついで幕吏の登場となる。翌年露暦1793年1月10日・11日の条は次の通りである[14]

1月10日重要公務を帯びて松前に来れる幕吏2名根室に到着す,ゴフシンヤク(御普請役?)タバニヤスゾウ(?)及びオゴビト・メツブヤク(?)タクサコワ・レンジロー(?)と言ふ。11日上記2名の幕吏,医師と共に余等を訪問して挨拶を述べ且彼等は松前に於て余等一行の来航を知り余等を迎へんが為に態々此地まで来れる由を語る。幕吏は我が露国への距離,面積,大きさ,風俗習慣等に就て色々質問し,余等が種々の物品を所持し居るを見て工場技術のことをも聞き,露国の金銀銅の貨幣を眺め又世界地図をも一見して同じく復写の為め借用せんことを乞ふ。余は通訳を介して日本人の斯の様の興味に対して詳しく説明を試み其好奇心を満足せしむるに努めたり。然るに2名の幕吏が特に松前より派遣せられ又此地にある藩吏等が幕吏到着前に別に小屋を新築して引越したることより之を察するに,彼等は異国の珍客に接する為に来たれりとて自己の好奇心を口実となし居れども,畢境余等一行が疑はしき者にあらざるかを確めんが為めに特に此地に派遣せられたるの形跡歴然たり。時日を経ちて親しくなるに従ひ藩吏は交る●訪問し余等も亦役人の家に遊びに行きて互に往来し居るが,幕吏到着後藩吏は最早や余等を訪問せざるやうになれる。通訳には露西亜語を教ふる為め毎日藩吏の許に通はしむ,之れ地図の欧文を日本語に訳する必要上,通訳の労を乞ひしが故なり。余等の所見を以てすれば,日本人は極めて勤勉忠実にて,彼等は余等の船の模型(モデル)を作り且つ船具を を(ママ) 模写する為に然るべき人をと望みたれば接針手を遣はす。役人は余が所持せる旋盤(レーズ)其他種々の木製器をも模写せり。

ここでは幕吏もまた世界地図に興味を示しかつ借写している様子がうかがえる。冒頭の疑問符つきの役名と人名は『日記』の翻訳者にあるもので,それぞれ御普請役・田辺安蔵,御小人目付・田草川伝次郎をいう。田辺安蔵は元来が松平定信の家来であり,この折も『魯西亜語類』と称されるロシア事情を含めたロシア語の単語集を編み,定信に呈している。なお通訳ヱゴル・イワノウィチ・トゴルコフにロシア語を教わったのは主に松前藩医加藤肩吾であった。

 さて,以上のようにみてくるとき,松前藩側の地図の関心はともかくとして,幕府側も早々と公式会見以前に世界地図の写しを得ているのである。結果的には公式会見時にこれらの地図の原図も幕府に贈り物として提供され,ついで『北搓聞略』の附図へとつながることになってゆく。

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