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記事の検討

 筆者の関心は「地図」にあるのでこれを中心にすえて上記記事を検討する。上述のごとく1794年は和暦寛政6年であり,時の商館長はヘイスベルト・ヘムミイ(Gijsbert Hemmij. 在任1792.11.13-1798.7.8),場所は江戸の長崎屋であった。この年の前々年寛政4年9月ラクスマンは漂流民光太夫らをともなってネムロに来航する。翌寛政5年6月,目付石川忠房らがラクスマンと会見し,諭書と長崎入港の信牌を与え,光太夫らを受けとる。同年9月光太夫らを将軍家斉が引見する。寛政6年8月桂川甫周,内命を奉じて『北搓聞略』を完成する。

 すると上の記事にしるされた出来事は,『北搓聞略』執筆中のこととなる。西暦1794年6月1日と2日のカピタンと日本人学者との会見は,有名な事件であった。大槻玄沢の『西賓対晤』の第一「甲寅来貢西客対話」[7]がこれを記録している。甲寅は寛政6年であるが,この桂川らと蘭使一行の会見は和暦の5月4日[8]申の刻(午後3時から5時)から始められた。第2日目すなわち翌日5月5日は七ツ時過ぎに始められた。桂川らはこの会見を実現するため幕府をはじめ諸方に働きかけをし,願書を呈出していることは省略するが,『日記』に示された人物の多くは大槻の記述によって判明する。

九ッ頃令息甫謙君森嶋甫斎宇田川玄随同行〆長崎屋旅館ニ到ル大通事加福安治郎ヘ出会対談ノ事ヲ謀ル此日官医方栗本瑞見桂川甫周同甫謙渋江長伯諸君余等倶ニ七人長崎屋源右衛門坐舗ニ待合居七ッ過ヨリ対話始マル小通詞今村金兵衛通弁ス

桂川の同道者は上の7人であった。翌5月5日には次のようにある。

翌五日玄随等同行四ッ頃長崎屋へ到ル此日対談ノ人数栗本瑞見佐藤有仙桂川甫周ノ三君一橋医官石川玄常息玄徳余等三人也昼前ハ天文方ノ衆中対話有リ待合居七ッ時過始ル大通詞加福安次郎通弁ス暮前済前野杉田二氏故障有リテ参会ナシ

この時は桂川の同道者は5人。杉田玄白,前野良沢は前もって参加の願いを出していたが欠席している。これで『日記』1794年6月1日および2日の医者・天文台局員・地理学者たちのうち,医者たちが誰であったか判明した。だが後二者は特定できるであろうか。カピタンは『日記』中にこれらの人々をひとまとめとして,またあたかも桂川の同道者と扱っているようにみうけられるが,実際はちがったようである。上の和暦5月5日の引用文中〈昼前ハ天文方ノ衆対話有リ〉に注意されたい。この日医者たちは午後にむけて来たり,一方午前中には幕府天文方が来ていたのである。その天文方も大槻の次の記事のよって確定できる。

昼前天文家佐々木山路二君徒弟ヲ引キ来リテ対談アリ西客昼餔ノ後申刻過キテ医家ノ対談始ル栗本佐藤桂川三子石川玄徳余等三人式昨日ノ如ク●劇モ亦同シ大通事加福安次郎通弁ス

ここにいう天文家佐々木と山路のうち,後者は山路徳風をいう[9]

 さて,しかし地理学者たちとはいったい誰をさすのであろうか。天文方の佐々木長秀あるいは山路徳風をさすのではあるまい。彼らがひきつれてきた弟子の中に該当者がいるのであろうか。『日記』の記述によれば,前日も彼らはカピタンの許に来ていたという。天文方は元来,改暦の作業を第一の仕事とするが,もとは数学を用いる学問を軸とするゆえに,測量家や,時に外国語に通じた専門家をも擁する幕府の専門的一機関であった。したがって,佐々木・山路にひきつられた弟子中にこれらの人物が混じっていた可能性がきわめてたかい。残念なことに大槻は医者ゆえに『西賓対晤』は主に医事問答の記録であり,かかる疑問の答えを提供してはくれない。しかし大槻は4日の条に次のことを書いている。

最上徳内御普請役蝦夷地ヨリ持来リシ産物今余某候ノ珍蔵トナル借ツテ以テコレヲ彼ニ質ス皆多クハ見及サルモノナリトテ一奇観ナリトイヘルノミ[後略]

これによって大槻と最上徳内が知己であったことを知る。

 さて,それでは地理学者たちとは誰であろうか。『日記』の記述から,そのひとりは,ラクスマン来航時に宣諭使とともに松前におもむき,ロシア人より地図をえた人物。彼は冷静・沈着な人物とカピタンの目にはうつる。このような条件に合う人物は誰か。そこでラクスマン来航時に目をむけなければならない。

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