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3. 太刀川宛赤水書簡「世界万国図」とは『和蘭新訳地球全図』をさすか。

大坂本屋仲間の調査結果,11月12日の記事の如く二種の赤水世界図 (「和蘭新訳地球全図」と「地球大図・同小図」)の出板経緯が明らかになった。

大坂本屋仲間の記録の中には,この調査結果を裏付ける資料があるので 摘記する。

○ 1           口上[4]
一和蘭新訳地球全図全壱冊,此度新板仕候ニ付,御願ニ差出シ申候処,元株等も品々所持候事ニ御座候ニ付,殊ニ無滞取急キ候事御座候間,何卒急々御願被下候様,別而御頼奉申上候処,御聞届ヲ被成下早速御願被下候段千万忝奉存候,然ル上は万一脇より差構有之旨申出候人有之候はゝ急度訳立致シ,御行司中様御迷惑ニ相成申間敷様取計可仕候,為後日依如件
 寛政八年辰十一月藤屋弥兵衛    
 御行司衆中様

○ 2           覚[5]
  一和蘭新訳地球全図 閲者 水戸長久保赤水
      折本全壱冊
  一世話千字文(略)
  一同 仮名附(略)
   〆三品
    (中略)
   寛政八年辰十一月開板人            
藤 屋 弥兵衛      
平野屋半左衛門      
   御行司衆中

○ 3           覚[6]
  一和蘭新訳地球全図 折本 全一冊
 「此時,願本板元へかし置   閲者 水戸長久保赤水
   巳八月上本済」(後筆)  開板人 高麗橋一丁目藤屋弥兵衛
    (中略)
   寛政八辰年十一月

『和蘭新訳地球全図』(折本壱冊)は水戸の長久保赤水が「閲者」として 大坂高麗橋壱丁目の書肆藤屋弥兵衛が開板したものである。橋本宗吉製・ 赤水閲として知られるもので,『地球万国山海輿地全図説』がいわゆるリッチ系 世界図であるのとは異なり,東西二球図である。本図板行の経過は次の如くで あった。寛政8年11月に藤屋弥兵衛から新板として開板願が出され,同18日 開板御免 [7],翌寛政9年8月に上ケ本を済ませた。藤屋は「元株等も品々所持候」 といって許可の出るのを急いでいる様子である。

寛政2戌年改正「板木総目録株帳」 [8] には本図の蔵板者は「藤弥」と「河新」 (河内屋(岡田)新次郎)。文化 9 壬申歳改正「板木総目録株帳」 [9] では相板と された上で,この 2 名に「河木」と「河喜」(河内屋(柳原)喜兵衛)が 加わっている。

現存の本図を精査された海野一隆氏は,年紀はいずれも 「寛政八年歳丙辰冬十一月官許印行」となっていて,どれが初版なのか, どのような順序で重版されたのか,一見しただけでは区別がつきにくいとされ, 奥附に記される書林名(ただし,奥附の書林名は売出しを示すものであって 蔵板者を示すものではない)によって次の5種に区別,A B C D E の順に板行された とする [10]

 A. 小川太左衛門・北沢伊八・浅野屋弥兵衛・曽谷林蔵
 B. C. 小川太左衛門・北沢伊八・浅野屋弥兵衛・岡田新次郎(表紙により 2 種あり)
 D. 小川太左衛門・浅野屋弥兵衛・岡田新次郎
 E. 小川太左衛門・柳原喜兵衛・岡田新次郎。

先に引用した○ 1 ~○ 3 の資料,「板木総目録株帳」,海野氏の調査結果を 合わせて考えると次のようになろう。『和蘭新訳地球全図』の板木は寛政 2年には出来上がっており,蔵板者は藤屋(浅野)弥兵衛と河内屋(岡田)新次郎の 相板であった。先に述べたように実際に藤屋弥兵衛から新板として 開板願が出されたのは寛政 8年11月で,同18日開板御免,翌寛政 9 年 8 月には上ケ本という経緯であった [11]。 相板者であった河内屋(岡田)新次郎がこの売出しに加わっていないのは何故なのか 疑問が残るが,海野氏が本図の初版とされた Aは以上の経緯によって出板された。その後,曽谷林蔵に替わって, 蔵板者でもあった岡田新次郎が発売書林に加わり(B ・ C),江戸書林の 北沢伊八が売出しから手を引き,大坂書林 3 店の売出しとなった(D)。さらに,売出し書林から藤屋弥兵衛が抜けて新たに 河内屋(柳原)喜兵衛が加わった(E)。文化 9 年以前に本図の蔵板者は藤屋(浅野)弥兵衛と河内屋(岡田)新次郎に加え 「河木」と河内屋(柳原)喜兵衛が相板者となっているから,E の板行はおそらく河内屋(柳原)喜兵衛が相板者となってからのことと考えられる。

太刀川左四郎宛赤水書簡で須原屋伊八が発売の予定とあったとおり, A は大坂の小川太左衛門,浅野弥兵衛(藤屋),岡田新次郎とともに 「江戸 北沢伊八」すなわち須原屋伊八が売り出し書肆となっている。 赤水が書簡で下書を渡したにすぎないと書いたのは,地図の基本的な部分は 橋本宗吉が蘭書にもとづいて作成し,赤水は閲者として地名を訂正するなど, これに手を加えたことをいうのだろう。蘭書にもとづく本図の出板は天文方の 検閲を受けねばならず,赤水が禁書と思い込み広く流布は成り兼ねると考えていた ことと符合する。

杉田雨人氏は下記の水戸藩医原玄與(南陽)宛赤水書簡の一節を引用している [12]
 愚老此度内々にて万国図説と申す折本,上木出来候。其御地へも須原屋より,内々賣候様に承候。

赤水の書簡は東国の太刀川左四郎と原南陽に宛られたものであったから, 江戸では須原屋伊八から発売されることをいったまでで,あえて大坂の書肆には 触れなかったのだろう。

先の赤水書簡にいう「地球万国図」が,上記の考察のように 橋本宗吉作・赤水閲『和蘭新訳地球全図』であるとすれば, 書簡から次のことが明らかになった。

イ.赤水が売り捌いた本図には彩色図と素摺の二種があった。
ロ.売り値は彩色壱部につき弐朱五分(卸値は弐朱),素摺壱枚は壱朱壱分であった。
ハ.素摺が初刻で,彩色図はこれより後の刷りである。
ニ.彩色図は素摺りに埋木をして彫り足したもので,素摺は彩色図にくらべて不足の所がある。
ホ.素摺はもともと彩色が施されていなかったが,手彩色を予定して膠礬引きを施してあったようである。

海野氏の調査によれば,偽版とされるものは別にして,現存の 『和蘭新訳地球全図』はすべて筆彩であるから,上記にいう彩色図は彩色摺りでは なく筆彩であることをいうだろう。ただ,上記では素摺も販売したらしい。 とすれば,無彩色の本図が現存していないことをどう考えるか, 疑問のままに残さざるを得ない。

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